――山野バンの声が出なくなった。
 初めにそのことに気が付いたのはジェシカで、今日の夕飯の献立は何が良いかと尋ねた所口元に手を当てて僅かな逡巡の動作を見せた後、微笑みながら顔の前で手を振った。それが、特に希望はないよという意志表示であると通じてしまったばかりにジェシカは頷いてその場を去った。他の面々にも同じ問いを繰り返さなければならないので、希望がないならそれはそれと納得した。声を掛けた場所から二人が挟む距離が少し開いていたことも手伝って、バンはジェスチャーに頼ったのだと勝手に処理してしまった。けれどふと、いつもならば希望がなにしろバンは「何でも良いよ」と伝えてくれていたのではなかったかと思い至った。それから一言二言、ジェシカの料理の腕前を褒めたり、感謝の言葉を述べたり、些細な言葉を添えてくれていたような気もしたのだけれど引き返していつものように自分を喜ばせる言葉を言ってくれないのね、なんて詰め寄れる筈がなかった。
 バンの声が出なくなったことを知ると、周囲の人間は皆心配そうに彼に詰め寄った。大人たちは病院に連れて行こうとしたが、バンがそれを嫌がった。あからさまな拒否の態度や表情ではなく、困ったように微笑んで自分に伸ばされてくる手をやんわりと制する。それが、不思議な程に他者の動きを妨げた。しかし事態が事態なだけに、何処か身体の具合を悪くしているのかもしれないとNICSの実働部隊全員で健康診断を受けるという形に落ち着いた。結局バンの身体に目立った異常はなく、となると原因は心理的な面にあるとされ、しかし当のバンは自分の声が出ないことに不便を覚えることはあっても不安を覚えることはないといった風に構えていて、とても何か重大なことを思い悩んで追い込まれてしまった人間の様には見えなかった。
 次第に思い出の中でしか再生されなくなっていくバンの声を、誰もが惜しみ、案じた。人間は故人の声から忘れて行くものと聞くが、それは声の印象が浅いのか否か。心理的な原因ならばある日ひょっこり喋れるようになるかもしれないと医者は言う。希望のような、見当もつかない原因を覗けない彼等にはどうしても楽観的に受け取ることのできない言葉だった。バンは、喋れなくとも以前と変わらず微笑んでいる。
 声が出なくともLBXの操縦は出来る。その腕前が錆びることはなく、しかし必殺ファンクションが完全に不意打ちで発動されることだけが難儀だった。ならばと全員がCCMの音声以外で必殺ファンクションを宣言することを止めるようになった。紙一重でも交わせるだけの反射神経が養われるという名分の下、誰も彼もがバンの声が消えた世界に適応していった。
 それでも不便は不便として付きまとう。結果バンは、会話をLBXに任せるようになった。必要最低限の頻度で、身振り手振りでは伝わりにくく、筆談の手間を省くためバンがCCMに入力した文字をLBXに取りつけた装置が音声変換して発生するというもの。その特殊な改造も、父である山野淳一郎には特別難しいことではなかったようだ。抑揚のない電子音声だったのは、息子への愛情がさせたのか。バンの言葉を語っていても彼の声ではないのだと主張しているようでもあった。

「――バン君」

 自分の名前を呼ぶ声に、バンはいつも困ってしまう。ジンは、バンがCCMを手にしていない時ばかりを狙って声を掛けてくる。物言いたげな瞳が揺れて、バンは何も言わない。それを薄情とは謗られないことを今のバンは約束されている。狡いなあと他人事のように自分を咎める声は、バンの脳内でだけ紡がれる。
 不思議なことに、ジンはバンの言葉を声に頼らず見事に理解してみせた。二人の間の意思疎通が完璧であるが故の賜物かというと、バンの方は何故こうまでジンに自分の意思が通じるのかとしみじみ感心していたので一概には言えない。ジンがバンへ抱く愛情の賜物だと言えば大抵の人間が頷くだろう。無頓着なのは、いつだってバンの方だった。
 これまでは、バンが話す取り留めもない話題にジンが頷いていれば良かった。バンが駆け寄ってジンが振り向く。そんな付き合いの仕方をしていた。けれどバンの声が失われて、彼はどこにも駆け出さなくなった。じっと腰かけて、思考し、けれどその結果を外に吐き出すことはなく微笑んでいるだけ。ヒロやランが手を引けば大人しく引き摺られ、幼馴染と親友が両脇を固めれば安心したように眼を閉じる。ジェシカが夕飯の献立の相談に来れば静かに首を振るしユウヤが気遣うように覗き込めばハグのひとつで意思を示した。そんな風に、どうにもならないことなどそうそうありはしないのだと、バンは仲間たちを大切にしている。けれどジンだけは、どう接したものかなと決めあぐねていた。これまで通りに出来ない、その弊害が大きすぎる人だった。名前を呼びながら駆け寄ってやることは、もう出来ない。

「バン君は、やらないのか」
「――――」
「そうか。なら僕も今日は見学しよう」

 部屋の中央に置かれたジオラマを囲んでLBXバトルに興じているヒロ達を、少し離れた場所の椅子に座って眺めているバンの隣に、ジンは寄り添うように腰を下ろした。
 バトルの展開に応じて声を上げるヒロたちとは対照的に、ジンとバンの間には会話らしい会話は一切なかった。この状況ではジンが一方的に喋りかけるだけで、電子音声を頼ろうにも彼があまりそれを好いていないことをバンは知っていた。嫌がることを積極的にしなければならないほど切迫した場面でもないのだからと、バンはCCMとLBXを取り出すこともしなかった。
 どうやら現在行われているヒロとユウヤのバトルはユウヤが優勢のようだ。苦戦を強いられて焦りが顔に浮かぶヒロと、檄を飛ばしているラン。他にも楽しそうにジオラマを覗き込んでいる仲間たちにバンは優しい眼差しを送っている。そしてジンは、横目でそんなバンを見つめていた。
 一見ただ穏やかなだけのバンの笑みは、声が出なくなってから圧倒的に浮かべる回数が増えていた。それをジンは恐ろしく思う。人間同士の繋がりを維持し、広げていく為に声というものは重要だ。技術の進歩で文字も音声も簡単に世界中に飛ばすことが出来る。けれど目の前の人間同士を繋ぐのに使用されるのは文字よりも音声の方が圧倒的だ。それが小さくとも集団であれば発言することが意思表示であり、それをしなければただ埋没し端へ端へと追いやられてしまっても仕方がない。与えられた役割をこなすことで忘却は免れても、組織の中で人間同士の関係が深まることは難しくなるだろう。
 バンだって例外ではなくて。ただ彼の場合それを望んでいるかのように振舞っている節があるからジンは不安なのだ。今もこうして、喋れないだけで実力には何の影響もないというのにバトルに加わることなく一人きり傍観者の位置に甘んじていること。送る眼差しは、走り回る幼子を見守る母親の様で居心地が悪い。中心から外れて、舞台袖から物語を見守っているだけの役者ではない何か。そんな場所に、バンは居座ろうとしていた。

「――バン君は、ずっとこのままなのか」
「………」
「声が出ないまま、ずっとこのままでいいのか」
「―――、」
「何をしているんだ君は…!」

 今まで誰も、バンの声が出なくなったことに戸惑い怒りを露わにした人間はいたものの本人を咎めるようなことはしなかった。外的要因にしろ、内的要因にしろそれは本人ではない何かがバンに干渉した結果なのだから仕方がないと。そこから快方に向かうことを期待するしかないのだと。
 けれど、ジンは今バンを咎める。理不尽な言いがかりだとは思わない。だってバンは全く理解していない。どれだけ人間の適応能力が優れていようと、寂しいものは寂しいのだということを。無機質な電子音が紡ぐ言葉を、本当はバン自身の声で紡いで欲しいと誰もが願っていることを。伝わっていればそれで良いなんてことはない。バンだからこそ、その声だからこそ響く意味が確かにあったということを、彼は一向に自覚していなかったのだ。
 だからジンは今バンを責める。どうしてだと咎める。けれどバンは何も言わない。申し訳なさそうに眉尻を下げて、隣に座っているジンの硬く握りしめられている拳に自身の手を添えるだけ。微笑まれないだけマシなのだろう。それが、今のバンがジンに示すことのできる精一杯の誠意なのだ。そしてそれ以上をジンは望めない。このままバンが物言わず消えてしまうような日が来たら、ジンはきっとこの妥協を後悔するだろう。
 だってジンは知っていた。バンが喋れないのではなく喋らないのだということを、本当は最初から知っていたのだ。



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きみの声はうつくしい
Title by『ダボスへ』





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