「ありがとう」

 たぶん、ずっとマサキが彼等に言いたいと思っていた言葉。だけどそれを伝えることは一つの区切りとして、別れにも似た、どこか物寂しい気持ちをもたらすもののように思えたから、マサキはこれまで一度たりともその言葉を伝えたことはなかった。
 ヒロトから手渡された小さな白い封筒の中身を、マサキは開封せずとも知っている。同じものを、過去に二度貰ったことがあるからだ。一度目は、晴矢と杏から。二度目は風介とクララから。どちらも、彼等の人生の何度目かの門出となる日への招待状。目を閉じれば鮮やかに再生される記憶はよく晴れた空と、華やかな景色と、自分を抱き締める純白。結婚式なんて、改まって開かずとも自分と出会った時にはもう二人でワンセットとして完成していて。恋人と夫婦では呼び方の差にどれだけの価値が変動するかなんてことは未だ知らない。目の前でにこにこと微笑んでいるヒロトを見上げながら、マサキは思う。この招待状と、周囲に夫婦になることを宣言する為の式典は、彼等が新しい一歩を踏み出すことの象徴だとしたら、それは、自分との距離が開いてしまうことなのだろうかと。

「――ヒロトさんたちが、一番早くに結婚するかと思ってた」
「あはは、よく言われる」
「でも最後なんだね、意外」
「俺の方が色々ごたついちゃったからね」

 笑って、ヒロトはマサキの頭を撫でた。嘘偽りなどなく、マサキは言葉通り結婚するならヒロトと、その恋人である玲名が他の二組より先だと思っていた。理由はなんとなくとしか言えないけれど。だけど実際に蓋を開けてみれば、一番に結婚したのは晴矢と杏で、二番目は風介とクララだった。違和感なんてあるはずもなく、お日さま園の面子に混じって笑って祝福した。その後彼等との付き合い方に変化が生じたかと言えばそれもなく、結婚式とは一体何なんだと首を傾げるばかりだ。
 だけどふと、思うことがある。結婚という儀式が、本当の家族になる為に必要なものならば、これまで彼等が属していたお日さま園という枠は結局家族のようなものという曖昧な存在でしかないのではないか。だとすれば他人として離れていくのもまた自然なことで、長年に渡って自分に構い倒していたこのヒロトを含む六人組と疎遠になる日だっていずれ訪れるのかもしれない。慣れきった、子どもの自分以上に子どもらしさを知っている彼等に手を引かれるどころか引きずられた日々は今のマサキに多大に影響を及ぼした。どんなふうに、と聞かれてしまうと困ってしまうけれど。たぶん、良い方に影響を受けたのだと思う。外面の良さに磨きがかかったという点に関しては、大人六人でおっかしいなあと腑に落ちない反応をされたけれど。

「…ヒロトさんたちが結婚したら、みんな本当に大人になっちゃうんだね」
「今でも大人のつもりだけど?」
「でも本当の大人は河川敷で夕方までサッカー出来ないじゃん」
「……出来るよ」
「嘘だよ」

 だって、大人は忙しいんだから。マサキから見て、ヒロト達は大人だった。それでも、恋人であっても家族でなかった彼等は単体で自分に責任を持つだけだったから、夕方まで遊んでいたって、夜中まで出歩いていたって良かったのだ。仕事だって家事だって、誰かの為でなく自分の為だから適度に放ったらかしても怒られたりしないからそれをする。余所の子に構い倒す暇だってある。
 ――だけど結婚して、家族になって大人になるってやっぱり変わるってことなんだ。
 少なくとも、強固に見えて彼等からの気紛れに頼るしかない拙い繋がりを緩めてしまう程度には。頭に置かれたままのヒロトの手を払うこともせず、マサキは手にした封筒を持つ指に力が籠もることを他人事のように看過していた。皺になっても、破れたりはしないだろうから。泣いたりはしないけれど、悲しいと涙が出るなんて直情的な幼さは持ち合わせていなかったから、涙が乾いていたとしても今のマサキは悲しいのだ。
 「ありがとう」と伝えることはお別れに似ていると思った。だけど飲み込んだ言葉よりも「さようなら」と先に言われてしまえばそこでお終いだなんて、マサキは想像もして来なかったから追い込まれてマサキは漸く「ありがとう」よりも言いたい言葉があったことに気付くのだ。

「マサキ、」
「……ん、」
「サッカーは出来るよ」
「何で」
「マサキが一緒にサッカーしたいって言ったら、休みの調整くらい俺たちは全力でするよ」
「……自分たちに子どもが出来たらそっちを優先するでしょ」
「そしたらマサキにも子守を手伝って貰おうかな」
「はあ!?」
「だってマサキの弟分妹分にあたるんだから可愛がってあげてよ」
「ええー」
「俺たちがマサキにしてあげたようにさ」
「それはやめてあげた方が良いと思う」
「あれっ!?」

 幼子に言い含めるような物言いは、思った以上に真剣な眼をしたマサキの言に押し返される。過剰なまでに構い倒した自覚はあるけれど、そんな真顔で拒否されるほど重たいものを注いだつもりはないだけに少しショックだ。それでも、その重たいものを注がれたマサキが現在こうして自分たちを警戒することなく向かい合っていて、その上結婚という言葉に開いてしまう距離を想像して嘆いてくれているのであれば本人には悪いがヒロトとしては喜ばしさが勝る。それは他の五人に尋ねても同じことだろう。
 いつだって繋いでいられる手など持っていなかった。マサキの思っている通り、気紛れより強固な熱意と愛情が向かうだけの繋がりは脆いのかもしれない。だけどまだ、マサキは知らない。家族よりも弱いと彼が思っている家族のようなもの、その集まりにヒロト達がどれだけ心を寄せて慈しみ救われてきたのかを。それを知れば、きっとそんな不安には囚われたりはしないのに。

「ねえマサキ、好きな子いる?」
「いきなり何?」
「いつかマサキに凄い好きな人が出来て、付き合って結婚することになったとして」
「――ヒロトさん?」
「マサキは俺たちと距離を置こうと考えるのかな」
「――――、」
「愛情も一つではないよ。恋を経て辿り着くものもあれば、ただ言いようのない感情にそう名付けることもある」
「ヒロトさんたちが俺を構い倒したみたいに?」
「うん、俺たちはマサキを愛してはいるけど、流石に恋はしてないなあ」
「………そっか」

 わかりやすいかは別として、ヒロトが言いたいことは理解できた。何も変わらないと言いたいのだろう。もしくは変わったとして、気持ちまでは離れないと。実際を体験しなければ答えなど出ない。それでも信じたいとは思う。見放されては傷つくくらいに、マサキはもうヒロトたちを自分の懐に入り込ませていたから。彼等なら無条件に自分を愛してくれるのではと期待を抱いたのはもう昔、今では愛されていると知っているからマサキだって彼等の間合いに入り込むことを恐れない。出会ったばかりの鬼ごっこは思い出しただけで疲労感に襲われる全力の狩だった。狩られた獲物は悲しいかな、マサキ自身であったけれど。

「そうだマサキ、その招待状なんだけどね」
「?」
「招待状一枚で同伴者も出席できるんだ」
「はあ、」
「もし好きな子がいるなら連れてきてくれても良いよ?」
「――――ぜってー連れてかねー!!」
「え、いるの、いるんだ!?マサキ好きな子いるんだ!?」
「!!」

 しまった、墓穴を掘ったと悔やむよりも先にヒロトに食いつかれる。十数秒前までの真面目な会話は何処に行ってしまったのか。言い逃れしようにもヒロト相手では難しく、最悪仲間を呼ばれる可能性がある。現にマサキに抱き着きながらも片手に収まっているスマホは既に最悪の事態に動き出してしまった証拠なのだろう。六対一で対決するのは随分と久しぶりだが端から勝てる気がしない。だがこのまま一生涯彼等に全敗を喫するというのも何だか癪な話なので毎度マサキは全力で挑むのだ。
 だから一秒でも早く、抱き着いているヒロトの拘束から抜け出してお日さま園の自室に戻りクラス写真と言った証拠品をどこかに隠さなければなるまい。サッカー部の一年生で撮った写真などは特に見つかりにくい場所にしなければ。

「うわー、俺マサキの結婚式とか招待されたら泣くかもしれない」
「そういう妄想は自分の子どもでしろよ!」
「やだなあ、マサキも俺たちの子どもみたいなもんでしょ?」
「――――そこはせめて弟だろうが――!!」

 未だヒロトの腕から抜け出すことは出来ないまま。仮にいつか自分がこんな風にヒロトに招待状を出す日が来たその時は、きっと一番新郎新婦に近い親族席に彼等を座らせてしまうのだろう。だって、マサキはヒロトたちの子どもみたいな存在で、弟みたいな存在で、とにもかくにも愛しい存在で。そんな風に想われながら、マサキだってヒロトたちのことを想っているのだから。
 だから大人になって少しでも今の彼等に追いつけたと思えたらその時はちゃんと言葉にしようと思う。「ありがとう」も「大好き」も、こんな捻くれた自分を真っ直ぐに見つめて掬い上げてくれた、馬鹿みたいに子どもじみた、六人の大人たちに。
 怖いことなど、何にもない。



20120607