朝からマサキの吐く溜息を数えていた天馬は、自分が確認しただけでも朝練を終えて教室に辿り着いた時点で二十回を超えた時点で何かあったのかと声を掛けた。じとりと覇気のない顔で天馬に顔を向けたマサキはまた溜息を吐いて、そのまま泣き縋るように抱き着いて来た。それを机に荷物を置き終えた葵と信助がばっちり見ていて、なんだなんだと近付いて来た。

「仲良しさん?」
「狩屋今日なんか元気ないんだ」
「寧ろなんでみんなはそんな元気なんだよ!」
「何で?今日なんかあった?」
「今日じゃなくて明日!授業参観だろ!?」

 そういえばそうだったと頷くマサキ以外の三人は同方向に首を傾げる。「それがどうかしたのか」仕草で伝わる言葉は単純だ。マサキは目の前の三人がさほど授業参観を厭っていないことを知って説明するだけ無駄だと瞬時に理解する。自分の身内を友人に見られる妙な気恥ずかしさはまだ彼らの中には芽生えていないらしい。もしくは、そんな気恥ずかしさが微塵も存在しないか、諸事情で誰も来ないことが決定しているからの余裕。クラス中に聞きまわれば、マサキの言葉に明日を憂鬱に思っている人間は頷いてくれるだろう。それにしても、マサキが抱える気持ちはこのクラスの誰よりも少しばかり複雑だった。
 授業参観にマサキの身内として顔を出す人間がいるとすればお日さま園の責任者である瞳子が適任だった。それでもマサキは誰かに自分の授業風景を見て欲しいとは思わなかったし、事前に配られた参観日の通知プリントをゴミ箱に捨てることになんの疑問も迷いもなかった。そうして直ぐにマサキは授業参観日のことなど忘れた。
 だが、昨晩になってお日さま園に立ち寄ったヒロトが明日マサキの参観日を見に行くからと言い出した時は心臓が止まるかと思った。数秒の沈黙を置いて、何故ヒロトが自分の学校の行事予定を知っているのだと探る目線を向ければ答えは単純に先日昔の仲間である円堂たちと飲み会をした際に同席していた春奈に聞いたらしい。冗談半分で「狩屋君なんかは照れ屋さんだから授業参観のプリントとか見せずに捨てちゃいそうですよね」と酒の席で茶化していた春奈だったが、それを聞いた瞬間ヒロトは直ぐにピンと来た。きっとそれは大正解だと。その後瞳子に尋ねてみてもやはりマサキからそんなプリントは受け取っていないと困ったように言われた為、ヒロトは再度春奈に連絡を取って参観日の詳しい日時を確認、その後秘書である緑川に指示して当日確実に雷門中に出向けるよう仕事のスケジュールを多少前倒しにするよう頼んだ。おかげでここ数日のヒロトは社長室に籠りっぱなし、出る時は相手との商談のみという過密スケジュールをこなすようになった。だが事前に宣言してしまったのがいけなかったのか、疲れたと弱音を吐こうものなら玲名から惰弱の称号を頂きかねないのでヒロトは必死に頑張った。それはもう、首が掛かっているかの如くに頑張ったのだ。

「だって晴矢とか風介も行きたがるのを抑える為にどれだけの勝負を勝ち抜いたと思ってるの!」
「……一瞬感謝しそうになったけどじゃあアンタも来るなよ!」
「嫌だよ!行くよ!行きたいよ!」
「そんなに!?」

 お日さま園の食堂で、向かい合わせに座りながら二人で遅めの夕食を取っている。部活で他の子たちより帰りの遅いマサキの夕食は大抵ひとりか、いても二、三人。それを今日はヒロトが待っていたから自然といつもより賑やかな食事となる。出会った頃はつけていなかった眼鏡姿の彼も既に見慣れている。苗字が変わるんだと微笑まれたときは何故微笑むのかが理解できずに何も言えなかった。下の名前で呼んでいるから、あまり変化はなく。何も変わらないじゃんと呟いたマサキの頭を撫でてくれたのは晴矢と風介だ。
 追い駆けまわされた日々が、マサキの白旗と共に終わったのはいつだったか。具体的なきっかけはなかったし、もしかしたらマサキ以外の六人の大人たちは未だに続行していると思っているのかもしれない。ただ、手を引かれなくても自分から彼らに駆け寄るようになった。サッカーを教えてくれないかなと期待するようになった。慣れてしまったのかもしれない。それでも、マサキが段々と迎えた変化に誰も彼もが嬉しそうに笑って両手を広げて歓迎してくれたから、何だか未だにこそばゆい。嫌いではない。言葉には絶対したくないけれど、きっとマサキはヒロトたちが大好きだった。

「だけどそれとこれとは話がちげーよ!」
「ん?ごめんなんの話だって?」

 食事に集中し過ぎてマサキの言葉を聞き漏らしたからと聞き返してくるヒロトに、マサキはしかめっ面でそっぽを向く。こういう子どもらしい拗ね方が新しいだなんて可笑しなことだと思いながらも、ヒロトはこみ上がる笑いを殺しきれずにくつくつと笑う。それによってマサキの渋面が益々濃くなることも承知だが、ヒロトからすれば結局どれも可愛いの域を出ない。全く以て、愛しい子どもだ。

「何でそんなに授業参観に来られるのが嫌なんだい?苦手な科目なの?」
「違う。てか俺馬鹿じゃないし」
「知ってる知ってる。それを隠して晴矢にテストの成績で賭け持ちかけてサッカーボール買わせたんでしょ?」
「杏さん大爆笑だった」
「晴矢の財布は杏の財布でもあるのにねー。話が逸れたけど別に挙手しなくても良いんだよ?」
「……しろって言われてもしないけど」
「じゃあ何が嫌なの」
「………」
「マサキ?」
「泣かない?」
「マサキの中の俺どんだけ弱いの」
「ヒロトさんと俺じゃあ絶対親子には見えないじゃん」

 出会った頃には玲名と付き合っていて、大した揉め事もなかったと記憶している。それでもヒロトとマサキが二人で出掛ければ道行く女子たちにはどうやらヒロトが異性に大層魅力的に映るらしいことは幼いながらに理解した。そういう対象でなくとも、きっとマサキのクラスメイト達だって多少の興味を抱くだろう。そしてヒロトがマサキの保護者として参加していることを知れば彼に詰め寄るのだろう。「どんな関係なの?」「親子じゃないよね?」「お兄さん?」「あんまり似てないね」等々エトセトラ。こんな時、自分が剣城のように普段から一匹狼を気取っていれば詮索したい気持ちはあれど遠慮して貰えるのだろうかと、それ以外の場で不便であろう妄想も何度もした。
 なんと説明すればいいのかわからない。施設の関係者、知り合い。どこか冷たい言葉しか思い浮かばなくて、そんなんじゃないと否定する。友だちと呼ぶには、随分愛されていることを知っている。時に守られたこともあるだろう。厳しくするのは現実の仕事で甘やかすのが自分たちの役目なのだと、随分な詭弁を頂いた。引っ付くことを許されたマサキとヒロトたちの関係をどう言い表すのか。正直に一から説明するのも良いだろう。だがそれではマサキ自身の余計なことを語らなければならなくなる。だからヒロトも、思わず苦笑して「ごめんね」と謝って来るから、マサキはカッとなって「だからそういう話じゃないっつーの!馬鹿!」と言い残して自室に閉じこもってしまった。迷惑だと思っているんじゃない。気恥ずかしいのだ。何故それだけのことが理解してもらえないのか、それが今のマサキにはもどかしい。

「…じゃあ今日狩屋が元気ないのって授業参観が嫌だからじゃなくて、ヒロトさんに嫌な思いさせちゃったかもしれないから?」
「は!?違うし!」
「違わないよ!それにさ、狩屋君変なところで悩み過ぎ!ヒロトさんと狩屋君、傍から見てると兄弟みたいだよ?」
「えー。何それ嫌なんだけど…」
「照れるな照れるな!」
「それに、誰かに何か聞かれたら私たちが言ってあげるよ!狩屋君とヒロトさんはとっても仲の良い兄弟なんだよって!」
「そうだね、そうしよう!」
「はあ!?」

 事の経緯を話し終えた途端、マサキが心を悩ませていた盛大な問題をなんだそんなことと三人は解決の道を示して見せた。勿論、マサキにはその手があったかと素直に飲み込めるものではないけれど。この人を押し流そうとする軽やかさは、かつてのヒロト達とどことなく似ている気がした。つまり、自分には勝ち目がないということ。兄弟に見えるなんて言われて少し嬉しかったことは秘密のまま、マサキは仕方ないと妥協してやるふりをして、天馬と葵、信助の厚意に甘えることにした。
 それから携帯を取り出して、もしかしたら昨晩の出来事を気にしているかもしれないヒロトに宛ててメールを作成する。やっぱり授業参観に来てもいいよの旨とそれから。同じくらい重要な用件として、いつも乗り回している外車で来たら他人のふりをするという忠告も忘れずに。



20120501