マサキは最近、割と自分が常識人だったのだとしみじみ感じ入っている。小学生の分際で何をと思う人間もいるだろう。マサキ自身、悟るには幾分早いとは思っているのだがならば周囲の大人を見渡してみるとほら、と言わざるを得ない。どいつもこいつも大人げないというか、子ども相手に全力過ぎるのだ。瞳子だけはまともだと思っていたのがだが、よくよく考えると彼女はマサキを構い倒す大人たちを制止するどころかよろしくと預けてしまうくらいだからマサキとしては複雑な気持ちになる。悪意を持って接する大人に引き渡すわけではないのだから、守ってもらわなくても当然平気なのは知っている。それでも、ヒロトをはじめとする大人たちがマサキを構い倒す理由の根底にある好意、もしくはそれを通り過ぎた愛情は未だマサキには理解が及ばない場所にある。怖いとは、悔しいから言わない。逃げれば追い駆けてくること、頭を撫でてくること、遠慮をすると怒られること、嘘を吐くと直ぐにばれること、作り笑いをすると揉みくちゃにされること、何だか家族みたいでひどくもどかしいなんて、絶対に本人たちには言ってやらないけれど確実に絆されつつあるマサキの心は今日もおっかなびっくりで世界を覗いては引っ込んでを繰り返している。


 その光景に見覚えがなかったわけではない。クラスでもやんちゃと横暴の狭間で男女問わずリーダーぶる奴はいるし、そんな奴を少しだけ上から目線で見据えながらも言いくるめる言葉を持たないから結局同じ次元で手を出して揉めることは日常茶飯事だ。たとえそれが男子と女子の間であったとしても。ただそれは、あくまで子どもの喧嘩で済むレベルの話だ。教師が間に入って上手く言い聞かせてやれば翌日にはけろっとお互い会話しているレベルの。そしてそれは、成長する内に萎んでいく衝動だと思っていた。だからこそ、マサキは目の前で繰り広げられた光景に唖然と口を開けたまま固まるしか出来なかった。

「死ね晴矢!」
「だからわるかっ……ぎゃーー!!」
「………」

 晴矢と杏の家に遊びに、もとい拉致されていたマサキの前を行き交う罵詈雑言と悲鳴を聞きながら、これって割と教育上よくないんじゃないかと冷静に思う。寧ろ逃避の末に辿り着いた境地とでも言うべきか。以前杏に「晴矢みたいな大人になっちゃダメよ」とふざけ半分に言われたことがある。その時、マサキは素直に頷いてしまったがその気持ちはどうやら日に日に大きくなっている気がする。
 洗濯物を干すときは女性の下着を一番外側に吊るしてはいけないこととか、味噌汁の残りを具ごとそのまま流しに捨てたら詰まることとか、掃除機のコードは掃除が終わったらすぐ収納するべきだとか、まだ畳んでいない洗濯物の傍で飲食をするべきではないとか、特に、まだ買ったばかりの杏の服が出ているときは猶更。マサキでもなんとなく察して行動できそうなことを、晴矢は全部直進して杏の地雷を踏んで見せるから無関係の場所で見ている分には面白い。ヒロトや風介はそう言っていた。だってなくならない地雷に吹っ飛ばされながらあの二人ラブラブなんだもんと笑ったヒロトに、マサキはそういう見方もあるかと感心しながら何も言えなかった。愛とは時に、拳に宿るものなのだろうか?マサキにはわからない。

「まったく、ちゃんと片付けといてよ!」
「はいはい、わかったよ」
「ふん、じゃあマサキ、買い物行きましょ」
「へ?」

 ある程度発散すると、杏は自主的にその怒りを収める。それが丁度いい自分だからなのか、晴矢も言い訳や文句を積み重ねるようなことはしない。突然話を振られたマサキだけは着いていけずに杏に手を引かれて玄関に向かいながら、助けを求めるように晴矢を振り返るが彼は行って来いと手を振って来るだけだった。ご機嫌取りなんかしてやらないからなと舌を突きだせば一瞬晴矢の頬が引き攣った気がする。普段は悪乗りしがちな晴矢と、その乗る波を作るヒロトや風介のやり過ぎからマサキを助けることが多い杏だから、その分一対一で振り回される形になった時、マサキはとことん杏をはじめとする彼らの恋人である女性陣には弱かった。噛みつき慣れていないから、まず噛みついていいのかが分からないのだ。全員か弱い女性とは形容しがたく、マサキが噛みつこうものなら叩き落とすか交わすくらいのことは容易くやってのけてみせる気もするが。
 やりづらいと苦い気持ちになりながら、気付けば手を繋いだままで近所のスーパーまでやって来ていた。知り合いに見られたら嫌だと思うのだが、振り払うことも出来ずマサキはきょろきょろと周囲を警戒する。この年齢になっても女の人と手を繋いでいるなんて恥ずかしい。子どもであっても芽生えてしまった自尊心はマサキを一丁前の男として立たせている。

「マサキ今日夕飯何食べたい?」
「……え?杏さんのとこで食べるの?」
「勿論、もう瞳子姉さんにも電話しちゃったから観念しなさい」
「観念って…」
「遠慮も度が過ぎると私とか晴矢みたいに気が短い人間には腹立たしいからね、先回りよ」
「……別に、夕飯くらい食べてけって言われたら素直に食べるし」
「はいはい、で、何食べたいの」
「……ハンバーグ」
「よし、じゃあまずは肉売り場見るわよ」

 相変わらず繋いだままの手を引かれ、夕方の混雑前の店内をすいすいと進む杏の背中をマサキはじっと見つめながら歩く。母の様とは全く思わない。だけど彼女の愛情は紛れもなく愛情でありマサキをこそばゆくさせる力があった。きっと自分に面倒見のいい姉がいたらこんな風だったのかもしれない。今となっては、姉どころか両親すら妄想でも補えはしないけれど。
 ずんずんと進んでいた杏の歩みがお菓子売り場に差し掛かった辺りで緩やかになり、止まる。どうしたのだと見上げるマサキを振り返り、「お菓子いる?」と尋ねて来たのでつい正直に「プリンが食べたい」と言ってしまった。合点だと頷いた杏はそれならば売り場が違うからとまた歩き出す。小さくとも、お願いであっても家族でもない人に我儘を言ってこうもあっさり受理されることが幸せだと、マサキは知っている。幸せだけど、あっさりと手から零れてしまうことも、そしてあっさりと零れた幸せを掬い上げてまた差し出してくれる人がいることをマサキは彼等から現在進行形で教わっている。講義終了の時間が来るのかは定かではない。杏や晴矢たちがマサキを構い倒す理由が同情ではない以上、ある一部分が補完されたからといって離れる理由にはならない。マサキが大人になっても何も変わらないかもしれない。それはまだ先の話と先延ばしにしておいても良い部分だ。
 手を繋いだままの買い物は、杏が空いている手で籠を持っているためマサキが商品を取って入れるという役割分担が自然となされる。ハンバーグの材料を放り込んで、最後にプリンを見に行った。好きなの入れてと言われたので、三つセットの物ではなくばら売りの物をチョイス。自分の分、杏の分、晴矢の分と入れようとしたところで杏が二つで良いと言うのでおとなしく最後の一個をもとの位置に戻した。一応、良いのかと目線で問えば今日の不始末の罰だそうだ。ならば仕方ないと納得の意を込めて頷く。そんなマサキの姿に杏は苦笑する。

「その分、ハンバーグはでっかく作ってあげましょ」
「俺あれ好きです、空気抜くときのキャッチボールみたいなあれ」
「ほうほう、じゃあマサキはこねるの手伝ってね」
「……俺のもおっきくして良い?」
「食べきれる大きさならね」

 レジに並んだところで、ようやく繋がれていた手が解けた。左右でばらけてしまった手の温度が落ち着かなくて、マサキは後ろ手に手を組んでらしくないと杏の手を目で追わないよう籠の中のプリンを凝視していた。
 商品を袋に詰め終えて店内から出ると、また杏がマサキに手を差し伸べたので、大人しく自分の手を差し出し返して重ねた。杏の片手にはスーパーの袋、マサキの片手にはビニール袋に入れたプリンがあった。買い物をしている間に西日が傾いて夕日になっていた。足元に伸びて並ぶ影を見れば、まるで親子の様だった。ついさっき、杏は母親の様ではないと思ったばかりなのに。それに、杏が母親となると晴矢が父親ということになる。それがマサキには想像しただけで眉間に皺が出来るくらいのことだった。嫌いではないけれど、加減を知らない彼は父親という身近な存在に据えるよりは時々遊んでくれる親戚のお兄さんくらいで十分だ。自分に一番サッカーしようと声を掛けてくれることは、自分から誘いを掛けられないマサキからするとありがたいことではあるけれど、やはり大人と子どもの諸々の差をすっとばしてしまう晴矢には不用意には近づけない。なんて思いながらも彼らの自宅にはほいほい連れて行かれてしまうのだから、マサキと大人たちの攻防戦の決着はもう相手有利にだいぶ傾いているのだろう。
 ただいまと開けた扉から漏れる香りはマサキの日常を過ごす場所の物とは違う。それでも幾分慣れてしまった香りにつられて「おじゃまします」より「ただいま」と呟いたマサキに嬉しそうに笑った晴矢と杏の顔がここにくる度にマサキの胸に去来する。
 リビングからやって来た晴矢が杏の持っていた荷物を受け取ってそのまま踵を返す。背を向けながらも夕飯について問答している二人に続くマサキは手にしていたプリンを早く冷蔵庫にしまおうと二つしかないそれをしっかりと持ち直す。自分の分がないと知ったら晴矢は早い者勝ちと勝手に一つ食べてしまうかもしれない。そうなると、喧嘩をせざるをえなくなるからマサキはその事態は避けたかった。仕方ないと黙り込んでは、今度は杏が黙っていないし晴矢も良い顔はしないだろうから。
 ――あとごめんなさい、今日はずっと杏さんと手を繋いでました。
 先を歩く背中への懺悔はおませな内緒として取っておく。子どもは子どもらしくと言う割には、嫉妬未満の杏からの甘やかしを羨む晴矢の顔はもう随分と見てきた。申し訳ないと思ったことはない。だって杏の恋人は自分ではないのだ。きっと食後のデザートは三人席に着きながら、罰と言いながらも杏は自分のプリンを半分晴矢に分けてやるのだと思う。ツンデレだからね、と脳内で再生された声音は彼らが如何に想いあっているかを知っていて、優しく茶化していた。その意味を子どものマサキですら理解させるほどに日々は騒がしく、振り返る記憶は穏やかなのだ。

「今日はハンバーグだからね」
「よっしゃ、俺のはでっかくしてくれ!」
「………」

 子どものように、かつ自分と同じ要求をする晴矢に、マサキは少々複雑な気持ちになったりならなかったり。
 更にその夜、二人の家に泊まるマサキを挟んで川の字で三人仲良く眠ることになった時、マサキはますます気分を複雑にする。挙句二人してマサキを抱き枕のように抱き締めるものだから、まるで親子みたいだと、恥ずかしさからなかなか寝付くことが出来なかった。


20120425