「俺のこと嫌い?」
 そう、蘭丸が時折何かを確認するかのように茜に問いかける度、彼女は胸がきゅっと切なく締め付けられるような気がした。仮にも恋人と呼び合う関係になって、まだ日が浅いとはいえ、蘭丸は何かに堪えるような瞳をしながら茜に縋る。
「ううん、ちゃんと好きよ」
 嘘なんて吐ける筈もなく。吐いているつもりもなかった。嫌いではないと答えた後にじゃあ好きかと尋ねられたら辛いから、茜は最初から彼に好きだと伝えてやる。きっとこれが、蘭丸の欲しがっている言葉だと思うから。自分がそうありたいという理想を乗せて、音にする。
 ふと、茜は蘭丸の優しさに気付いて、心から微笑んだ。蘭丸を好きになりたいと望んだのは、他でもない自分だったから。
 蘭丸は、自分が茜にとって都合の良い愛情を差し出して彼女を繋ぎとめていると思っている。けれど、茜にとって蘭丸が差し出した愛情は間違いなく優しさであったと思う。第三者から見れば歪で甘ったれた関係だと非難されてしまったとして、茜はたった一つ微笑んでその正論すら受けとめる覚悟はある。ただ、先に進む勇気だけは未だ見つけられずにいるのだけれど。
「なあ山菜、俺は山菜のこと好きだよ」
「――霧野君?」
 付き合い始めてから、何度も折に触れて受け取って来た好意の言葉。疑ったりはしないその想いを口にした瞬間、蘭丸の顔にふと落ちた影を茜は見落とすことが出来なかった。気付けたことを、それだけ自分が彼に近づいたのだと歓迎するべきなのか、気付かなければまだ夢を見ていられたかも知れないと後悔するべきなのか、この時の茜にはまだ分からない。
「でも山菜は、俺がいくら好きだって言っても、神童に好きだって言われたら、そっちの方が嬉しいだろ?」
 何かを堪える風でもなく、だってそれが当然のことなのだからと微笑んで見せた蘭丸は綺麗だった。だからこそ、その綺麗さが茜の心を鈍器で殴ったかのように攻め立てる。自分の行動指針を定めている気持ちを送り出す心を形容する言葉があったとして、決して自分のそれが美しいなどとは思っていない。だが今この瞬間、茜は自分の心こそ世界で最も醜いと呼ばれて然るべきものだと気付いた。
 蘭丸の優しさに甘えて、自分は一体何をしてきたというのだろう。蘭丸が言葉を発してからまだ十数秒としか時間は流れていないのに、茜の心は罪悪感や後悔と言ったマイナス感情を一気に噴出させたかの如くハイスピードで茜の思考の波をうねらせていた。
――私、シン様を好きだった頃を、どれくらい過去に出来ていたっていうの?
 問いかけてみたところで、結局問いなどではない言葉。答えは簡単で、茜はまだきっと神童拓人のことが好きなままなのだ。ただ蘭丸と付き合うことで、実らない恋に目を伏せる理由を増やして、また恋人がいるという事実が努力もしなかった恋を捨てる理由を肯定してくれると期待していただけのこと。
「……霧野君、私…ごめ、」
「ごめん、でも別れようとか言えない」
 茜の謝罪を遮って、蘭丸は穏やかな微笑みから転じて情けなく眉を下げながらきっぱりと言い放った。いつの間にか詰められた間合いと、握りしめられた手。そして重ねられた唇に気付いた瞬間、茜はまた一つ自覚する。
――ああ、また傷付けた。


20111123