山菜茜は神童拓人に憧れている。そんな周知の事実がいつから息苦しくて仕方なかった。茜にとって、憧れと恋は違うもの。茜が拓人に抱く感情は憧れ。否、憧れでなければならないといつのまにか周囲に外堀を埋められていたような気がする。茜は、いつだったか、今もだったか、確かに拓人を恋愛的な意味で好きだった。彼に恋をしていた。だけどそれは、誰にも打ち明けられることもなく彼女の心の奥に仕舞われていくことになった。状況を打破するのではなく、甘んじて受けて一番大事にしておきたかった気持ちを雑に投げてしまったことを、茜は誰に対してでなくとも詫びたくて仕方ない。あれは、とても大事な気持ちだった。
 霧野蘭丸は、まるで当たり前のように茜の拓人へと抱く恋心を知っていた。本当は、最初から憧れなどでは無く恋だったのではないかと思うほど、蘭丸はずっと茜を見て来た。蘭丸は、茜が拓人を追い掛けてサッカー部へやってくる前から、彼女のことを知っていて、気になっていた。観客席からカメラを構えている姿だったり、校内に入り込んだ野良猫にカメラを向けて逃げられてしょげている姿だったり、蘭丸はずっと前から色々な茜の姿を追い掛けて見つけて来た。そしてある日、茜の拓人への恋心も見つけてしまった。彼女がどうしてか、その恋を隠そうとしていることにも直ぐに気がついて、蘭丸はそれが嬉しくて仕方なかった。狡かった。だけどきっと、正当だった。自分の恋心を、自分が応援してやらなければ、一体誰かこの恋を叶えてやれるというのだろう。
 茜の傍に陣取ることは、思っていたよりずっと簡単だった。蘭丸の恋の一番の障害である拓人は、彼女の想い人は、自分からはちっとも彼女の傍に近づいてこないのだから。だって、拓人は茜のことを何とも思っていなかったのだ。それが当然だった。
 蘭丸の考える限りでは、拓人が茜に興味を持ったきっかけは周囲の噂話だったように思う。茜の憧れは、彼女の意志とは関係なしに彼女の手を離れ拓人に届けられた。興味本位の無関係な人間どもの言葉を媒介として。雑音として行き交う情報と拓人を遮断する方法を、蘭丸は知らなかった。拓人は、自分に憧れているという少女をその時初めて自分の瞳で捉え、映した。ずっと憧れ続けてきた拓人からの視線に、恋を埋めたばかりの茜は気付かなかった。悲しかったから、俯いてばかりいた茜には、気付ける筈もなかった。遠巻きに全てを見ていた蘭丸は、やっぱり自分の狡さを実感しながら、だけど何も言わないまま、友達として茜の隣でずっと微笑むことを選んだ。

 茜は、蘭丸のことが人間として好きだった。優しかったし、温かかったし、自分の想い人に一番近くにいて、自分を取り巻く噂話を耳にしている筈なのに何も言ってこないところに、救われもしていた。彼女は、蘭丸の下心を一度だって疑わなかった。
 いつからか、自分が片時も手放さないカメラが、拓人を捕らえる回数が減って行ったことを、茜は自分の恋の終わりだと思い込むことにした。実際は、外界の雑音に疲弊した心が逃げ出しただけだったのだろう。だけど、茜は自分の思い込みを真実にしてしまいたかった。拓人と少しずつ会話をするようになった。彼の瞳に映る自分がいることが嬉しかった。だけども、自分の恋は終わったのだから、そう頑なに信じていたかった茜だから、少しずつ拓人から後ずさりしていく自分は正しいのだと思っていたかった。
 そんな曖昧さで、日常をやり過ごす。ある日、蘭丸が茜に言ったこと。好きだと言った。蘭丸は、茜にとって一番都合の良いものを全部くれると言った。優しさに見せかけた甘言で、茜をぐるぐる巻きにして、最後に拓人は茜のことを好きでは無いのだからと、彼女をどん底に突き落として捕まえた。泣きながら、茜は蘭丸の手を取った。思っていたよりずっと温かい彼の手に、茜は少しだけほっとした。
 きっかけはどんなものでも、蘭丸と一緒にいるのは楽しかった。今まではわざわざ短い会話の為に彼のクラスに赴いたりはしなかった。だけどそれをするようになった。一緒に部活に行ったり、下校するようになった。子どもの自分達が、お付き合いと称して出来ることなんてその程度でしかないけれど、その全てが楽しかった。だから、本当はまだ燻っていた筈の拓人への恋心は、茜の中でどんどん沈んで行ってしまった。本当に終わりに出来たのだと、錯覚してしまえる程に。蘭丸のことを、自分はちゃんと好きになっていっている。茜はそう信じていた。


 職員室前で出会った拓人が、少し様子が変だったので具合が悪いのかと心配した時のこと。大丈夫だと、安心させるように自分の頭を撫でた拓人に、茜は唐突に泣きたくなって逃げたくなった。今の今まで忘れていた気持ちが、爆発したのかと思う程に飛び出して、茜を内側から責め立てた。
 もう好きなんかじゃない。頭の中でならいくらでも文字に出来る言葉が、どうしても音にして発することが出来なかった。他意のない優しさとして茜に届いた拓人の手のぬくもりは、未だ消えていなかった想いと、自分の身勝手さを浮き彫りにさせる残酷なものだった。それでも、一瞬でも触れ合ったことが嬉しかった。否定しようのない気持ちを抱えて、茜は廊下ということも気にせず蹲って泣き出してしまいたかった。



20110723