視界の端で、見慣れた影がちらつく度に考える。今となっては今更の、もしもの仮定。純粋な憧れと少しの興味から向けられたレンズを、照れ隠しに拒んだりせずに、微笑んで見せてでもやっていれば、だとか。逃げ出したりせず彼女の手を引いて引き寄せてやっていれば、だとか。そうすれば、憧れから動こうとしなかった彼女の気持ちを、自分と同じ側に引き込むことが出来ていたのかもしれない。恋情に塗れた、自分が山菜茜という少女を眺める際に抱く気持ちと同じように。
 教室の入口付近で、会話に興じている幼馴染の霧野蘭丸と、同じ部活のマネージャーである山菜茜の姿は、いつの間にか随分と見慣れたものとなっていた。それは、このクラスの人間も同様だろうし、茜のクラスの人間もそうだろう。幼くとも、拙くとも芽生えた好意はしっかりとそこにある。いつの間にか恋人同士なんて、他人の介入出来ない関係になっていた二人を、神童拓人は少しの寂しさを抱いて、だけどなんとか微笑んで祝福してやった。こうして会話している最中に時折蘭丸が茜に触れている姿だとか、一緒に昼食を取ったり、二人きりで下校したり、およそまあ恋人らしい行為をしている二人に遭遇する度に拓人は俯いて唇を噛む。どうにでもなった時には自覚など少しも出来なかった感情が、身動きの取れない状況に陥ってから急激に成長して、無視できない程に育ってしまった。そんな自分への嫌悪と、軽蔑が拓人の中でぐるぐると渦巻いて消えない。
 山菜茜の気持ちは、割とオープンなもので、彼女を知り得る人間ならば大体が口を揃えて彼女の気持ちをこう代弁する。「山菜茜は神童拓人に憧れている」。茜自身の口からも、否定の言葉など紡がれず、拓人の耳にも届いてしまうような、広がり過ぎた認識。ただこれは、一つの事実にしか過ぎなかった。憧れがそのまま恋愛に発展する訳ではない。気付けば、茜は蘭丸の手を取っていた。それを、拓人にどうこう言う権利はない。でも思うだけならば自由で、拓人は自分の受け身をただ嘆くだけだった。やっと気付いて、認めてやれた自分の気持ち。神童拓人は、山菜茜に恋をしていた。自分の幼馴染の恋人となった、少女に。
「シン様、」
「…山菜?」
 偶然、廊下で山菜に出会った。拓人の進行方向からやってきた彼女は丁度職員室から出てきたところだった。同じ部の仲間であるから、校舎で出会えば挨拶程度に会釈もするし手も振ったりする。でも名前を呼ばれるのは珍しいかも知れない。それは、つまり山菜は自分に用があるということだ。姿が見えたから駆け寄って話し掛けるなんてそれは蘭丸だとか女友達にしか適用されない事態だろう。考え過ぎの自虐的な思考の所為で、目の前で微笑んでいる山菜に対する笑みがどこか歪になってしまったのだろうと感じた。やはり、目の前の彼女は不思議そうに首を傾げて見せたから。
「…どうした?」
「あ…、放課後部活に行く前に自分の所に寄るようにと、音無先生が」
「そうか、分かった」
 やはり、部活のマネージャーからキャプテンへの伝言を任されていただけだった。自分で予想もしていて、分かり切っていたことの筈なのに、思いの外がっかりしている自分がいることに、拓人はがっかりする。茜が自分を気遣うように見詰めてくれていることが、馬鹿みたいに嬉しい。単純で、愚かしいことだ。
 これ以上自分を喜ばせない為にも、さっさとこの場を離れよう。自分も職員室に用事があるのだから、何の不自然さもないだろう。そう話を切り上げて、擦れ違ってしまおうとする拓人を、また茜の声が引きとめた。
「シン様、具合でも悪いんですか?」
「……いや?」
「でも、顔色も少し優れませんよ?」
「本当に、大丈夫だから。ありがとう」
 だからもう行ってくれ。とびきり安心させてやれるように、あやすようにぽん、と茜の頭に手を置いて一度だけ撫でてやる。茜は、少しだけ逡巡して、納得したのか無理はしないでくださいねと言葉を残して教室へ戻っていった。
 無理ならもうしてる。笑顔で蘭丸や茜と会話することでさえ、拓人には苦痛と言うより悲痛だった。それなのに、今少しでも茜に触れたことに胸を高鳴らせている自分に、拓人はしっかり気付いている。自分はまだ、彼女が好きなままなのだ。だからいつだって悔やんでいる。何故、あの幼馴染より早く彼女に想いの丈を伝えなかったのかと。そんなことばかり、考えている。



20110704