山菜茜は振り返る。神童拓人を想ったこと。霧野蘭丸を慕ったこと。後悔がないといえば嘘になる。だけど忘れることはないだろうし望まない。胸に走った痛みは茜の傷痕で、きっと彼女も相手に与えてしまったはずのものだから。
 発端はきっと茜の弱さだったのだろう。恋と認められなかった気持ちは、そう足掻く時点で手遅れだったと今になってみれば諦めがつく。差し出して、拒まれることが怖かった。拓人に送り続けた視線が決して絡まないことを嘆きながら、彼の後姿ばかり眺めていたのは自分だった。一度たりとて真正面から挑まなかった想いが、どうして報われることがあったのだろう。つい先刻の拓人の姿を思い起こしては、茜は過去の自分を恥じ入らなければならない。
 正直、拓人の気持ちなど考えたこともなかった。自分に対して彼が何か気持ちという具体的なものを抱いているとすら想定しなかった。だから、不躾に過去の恋を晒して振ってくださいと頼みこんだとき、拓人は信じられないものを見るような顔をした。それもそうだろう。茜は、彼の幼馴染の恋人として通っているのだから。
 一方的に自分の事情を喋り尽くした茜を、拓人は何も言えずに見つめていた。もう引き返す場所はないからと、茜は初めて真正面から彼の視線を受け止めた。レンズ越しよりも近く、真っ直ぐな瞳にどうして泣き出したくなった。今でも貴方が好きですとは言えなかった。恋心が死んだわけではない。それでも、茜の瞼の裏には蘭丸がいる。優しいだけの人だった。茜の恋心を知っていたから、時折目を伏せて申し訳なさそうにする彼が心苦しかった。貴方はこれっぽっちも私を傷付けてなどいないと伝えてあげたかった。それは、傲慢な気がして出来なかったけれど。
 誰も彼もが盲目な振りをした。目の前に在る明らかな事実に昏い振りをした。けれど、そんな瞳に自分を映して言葉にならない愛しさを訴えてくれる霧野のことを、茜は決して嫌いにはなれない。だから、拓人に止めを刺して貰いたい。憶病な自分が奮うたった一つの勇気だった。
「……山菜」
「はい、」
「好きだったこと、言ってくれてありがとう」
「……はい」
「俺は君のことが好きだったから、過去形なのは残念だけど、嬉しかった」
「―――シン様?」
「遅かったんだ。山菜が霧野と付き合い出してから、ああ俺は山菜のことが好きなんだって気付いた。それまで憧れてるってことだけが耳に届いて、無意識に自分が歩み寄らなくても山菜は俺のことを見てるんだって自惚れてた。それが多分、霧野には我慢ならなかったんだろう」
「霧野君が…」
「霧野はきっと、俺よりもずっと前から山菜のことが好きだったんだ」
「―――、」
「ずっと山菜を見てきて、俺とも一緒に過ごしてきた。見え過ぎてた部分もあったんだろう」
「シン様、それは――」
「山菜がちゃんと勇気を出して言ってくれたんだ。俺も…ちゃんと話す。霧野と、ちゃんと」
「はい」
 そこで会話は終わり。何処で振られたのかと問われると明確な言葉は示せない。けれどこの会話は、それぞれの立場とこれからを示して終わったはずだ。絡まってしまった糸を解く、その為に、昏い振りはもう終わらせなければならないのだ。
 茜の瞳は開いた。きっと、拓人も。あとは蘭丸だけだった。そしてそれを促すのは、自分ではなく拓人の役目だ。蘭丸が茜に意図せずとも決意を促したように。茜の勇気が拓人に行動を促すように。結果がどうなるかはわからない。けれどいつか、またその瞳に優しい人たちを映せればいい。そんな少し先のことを想像しながら、茜は廊下の隅に蹲って泣いた。
 その涙を拭ってくれる手はもう、必要ない。


20121119