――今頃山菜は神童に告白でもしているのだろうか。
 屋上でひとり風に晒されながら、蘭丸は空を見上げ流れる雲を数えるふりをしていた。今日一日、放課後の部活に想いを馳せても、机に広げた教科書や黒板に綴られる文字に齧りつこうとしても、こうして空を見上げても意識の全てをそこに集中させることが出来ないでいる。原因は、昨日まで自分に繋ぎ止めておけた少女と大切な幼馴染。そして根本は蘭丸自身の弱さと狡さだ。
 茜が拓人を好きだと知っていた。だけど自分が茜を好きだと真っ先に自覚していた蘭丸に、それを黙って見つめて暇なら手伝ってあげればなんて囁く声はなかった。狡くて間違いだらけだった。けれど誰一人蘭丸を責める資格を持たないまま誰も彼もが傷ついていた。もう少し他にやりようはなかったかと振り返っても、あったとしてもあの頃の蘭丸には選べなかったのだと思う。目の前に居る茜の背中を、どうしたって自分の方へ振り向かせることに必死だったのだから。
 憧れを恋心と認めることの出来なかった茜は、神童に拒まれたまま後に彼を無視していた。意識し合う視線を逸らしては涙して、つけこむ為にすり寄った蘭丸を救いのように思ったのだろうか。実際は、事態を混乱させただけだったけれど。それでも蘭丸は動くしかなかった。神童に対する勝ち負けではなく、茜に対する恋心がそれを求めたのだ。
 一時でも繋がって、触れて見詰めて寄り添って、口付けた熱を蘭丸は忘れない。このまま崩れ去るだけの茜への想いが散ったとして、その次を描くにはまだ蘭丸の想いは彼女にだけ向かっている。それでも、思いの丈を全身全霊で伝えたとしても叶うのが恋ではないのだ。
 紛れない気分にこだわることは止めようと、蘭丸は俯いて目を閉じた。どこからか聞こえてくる楽しげな声たちを防ぐことも出来ず、まるで自分が世界でひとりぼっちになってしまったような感覚に陥る。だけど仕方がない。大切な人たちがみんなして離れて行ってしまうとしたらそれは自分にも原因があると自覚している。

「霧野君」

 やっと静寂に溶け込み始めた意識を、聞き間違えるはずもない声が呼び戻す。一瞬、何故自分が呼ばれているのか理解できずに顔を上げることが出来なかった。けれどもう一度名を呼ばれれば、無視することは出来ず蘭丸はのろのろと顔を上げた。目の前に、見慣れた柔らかい微笑みを浮かべた茜が立っていた。
「――山菜?」
「うん、探したよ霧野君、教室居なかったから」
「……そっか、悪いな手間取らせて」
「ううん、いいの。これまでずっと、探して貰ってばかりだったから」
「―――、」
 まるで最後くらいは私から会いに行くよと言われたようで、実際その通りだろうから蘭丸の胸は握り潰されたように痛む。果たして自分の心臓はきちんと機能しているのだろうか。呼吸まで止まってしまって、酸素を得られない脳は上手く物を考えることが出来ない。
 茜は、何も言わない蘭丸の隣に腰を下ろした。心なしか、昨日までとは少しだけ距離を挟んでいるように思えた。
「――きちんと言って来たよ」
「……そうか」
「シン様、驚いてた」
「だろうな、でも良かった。これで――」
「霧野君、私きちんとシン様に振って貰って来たんだよ」
「―――え?」
 蘭丸がこれ以上惨めにならぬようにと、出来た人間を演じるように紡ごうとした祝福の言葉を遮って茜は矢継ぎ早に告げた。想い合っていた筈の神童拓人に振られてきたと。今度こそ蘭丸はガツンと頭を殴られたように思考が停止してしまった。合わせることの出来なかった視線を上げて信じられないと茜の顔をまじまじと見つめる。
 一拍後、もしや自分たちの関係を慮って拓人が余計な気を回したのではあるまいかという懸念が蘭丸の胸に過ぎる。けれどそれを見抜いたのか茜は静かに首を横に振った。
 そして――。

「今まで本当にありがとう」

 その一言を残して、茜は蘭丸の隣から腰を上げて校舎の中に歩き去って行った。
 残された蘭丸は、ただ痛み続ける胸の蟠りを持て余し、油断すると零れそうになる嗚咽を噛み殺すことに必死だった。
 繋ぎ止めていた少女は、もうここには居ない。


20121119