「シン様、今ちょっとだけ良いですか」

 茜が拓人を呼び止めたのは、彼が茜と蘭丸のキスシーンを目撃した翌日の昼休みだった。チャイムが鳴って暫くしてから、茜は物怖じする様子もなく拓人のクラスに足を踏み入れ真っ直ぐに彼に声を掛けたのだ。拓人は妙に感じて蘭丸の席を確認する。そこには誰もいなかった。
「…霧野に用事か?」
「――いいえ、シン様に」
「…そうか。ここじゃ駄目なのか」
「出来れば二人きりの方が良いです」
「わかった。それじゃあ部室だな」
 至近距離で顔を突き合わせていることがしんどくて、拓人は詳しい用件を聞きだすよりも話を纏めることを優先してしまった。無意識が探知した予感を信じきることが出来ずに、しかし警戒心だけは高まっていく。それは茜に対してではなく、不用意に自分の心の脆い部分を突く恋心に対してだ。二人きりだからって、何てことはないと言い聞かせる。抱いているだけで不義理なのだと責め立てて、これ以上霧野に対して後ろめたさを重ねないようにと注意を払う。最近では、それすら薄っぺらい建前のように思えて息苦しい。
 到着した部室はやはり無人で、拓人は茜から用件を伝えられるのを無言で待つ。愛想よく声を掛けてやれないのは、やはり昨日の一件を引きずっているからだろう。恋人同士の振る舞いに、どうこう言える立場ではないということを厭というほど突きつけられた。それなのに、自分はまだ茜のことを好きでいる。たったそれだけのことで、拓人は茜の瞳を真っ直ぐ見つめることすら出来ないのだ。
「シン様」
「…ああ」
「私、シン様のことが好きでした」
「―――は?」
「シン様のことが、好きでした。叶う見込みのない恋だと諦めていました。憧れからはみ出してはいけないと躍起になっていました。傷付くことがどうしても怖くて、好きでいることを認めたくなくて、そんな風に考える自分の弱さが大嫌いで、こんな自分を好きになって貰えるはずがないって、どんどん悪循環に陥って苦しくて。そんな時に、霧野君が言ってくれたんです。私のこと、好きだって」
「―――それは、」
「好きになれると思いました。霧野君は、私がシン様のことを諦めようとして出来ていないことを知ってて、その所為で何度も傷付いた筈なのに、好きだって言ってくれたんです。だから、私も同じように返せると思ったんです。霧野君のこと、好きになれなきゃおかしいって……思ったのに…」
「―――、」
「全然、上手く出来ない」
 震える声で語られる真実は、拓人を大いに混乱させていた。恋い焦がれた少女は、自分のことが好きだったというのにどうしてかそれを諦めなければならなくて、その為に自分の幼馴染と恋仲になったのだという。そしてその幼馴染は心底から少女のことを好いていた。利用されるような形でも構わないと。では果たして、彼は自分の気持ちを知っていたのだろうか。知っていて先手を打ったのならば、拓人は蘭丸を責めることも出来た。知らないならば、茜を責めることも出来るだろう。前者であっても後者であっても、それは拓人が二人のことを何も理解していなかったという無知の露呈にしかならない。
 だって拓人には、茜が自分を好きだったという事実を知らされても、それに思い当たる接触が全く以て思い出されないのだ。構えられたカメラは憧れの産物だと本人が言っていた。それがいつからか他の人間に向いていったことを知っていた。蘭丸と茜が付き合い出した時期から逆算したって、茜がマネージャーとして入部してから今日まで拓人は自分が彼女を好きだと自覚した以前の彼女との関わりの記憶が希薄だった。そして気付くのだ。
 ――嗚呼、だからか。
 自分がこんな風だったから、茜は自分への恋を叶わないものとして屠ろうとしたのだと。ならばこの捻れた三者の関係の責任は自分にもあるのだろう。途端に湧き上がる後悔は、傷付けてしまったことに対してではなく遅達過ぎた恋心へのもの。勿論、前者に対して後ろめたさがない訳ではない。けれどここで怯んでしまっては何も変わらない。きっと、茜はリセットしたいのだ。もしくは完全なシャットダウン。戻せないなら、失くすしかない。殺せないなら、殺して貰うしかないのだと。
 だから拓人はせめてもの矜持として真っ直ぐ茜の前に立ち、逸らしていた瞳を合わせた。予想外にも茜は泣いてはいなかったし、瞳が揺れているということもなかった。きっとそれが、彼女が守ろうとしている矜持だ。茜は、拓人に振って欲しいのだ。拓人が茜のことを好きだとは知らない、微塵も予想に抱いていない彼女は当然の権利としてそれを待っている。
 数分間の沈黙。茜が拓人に催促の言葉を発することはきっとない。次の一手は、拓人から打ち出さなければならない。今陥っている歪な三角関係を終わらせるのも、始めるにも、続けるのも全て拓人の選択次第。神童拓人は山菜茜が好きだった。それは、今更確認し直すことでもない。そして、拓人はこれまでこの恋は諦めなければならないものだと思い込んでいた。いつかの茜と同じように。だけど実際は違った。今尚茜が拓人への気持ちを殺せずに蘭丸を傷付けることに罪悪感を拭えないというのなら、拓人は狡賢い選択だって可能性としては出来る。
 けれど。
 それでは結局、蘭丸と茜の関係のように上手くはいかないのだろう。自嘲するような笑みを浮かべて、拓人は意を決し漸く口を開いた。俯いて、逃げ出したい憶病な自分を叱責しながら。



20120919