神童拓人が好きだ。その事実は、いつだって茜の心の奥の大事な場所に陣取っていた。そして大事なのだから、ちゃんと保管しておかなくてはと奥へ奥へとしまい込んだ。それは、茜にとっては封印のつもりだった。意識の端にも触れなくなるくらいに風化してくれる筈だった想い。だが実際は建前だった保管の名目通り、彼女の中で大きく根を張って成長していたらしい。気付いた時には、もう茜の手には余る存在になっていた。
 霧野蘭丸を好きになれるはずだった。その夢想はいつしか茜の心を痛めつける呪い文句になっていた。嫌いである筈がなく、けれど決して「好き」と言葉に乗せて伝え合うような近しさでもなく。それはつまり友情だった。蘭丸が好きだと言ってくれたあの日、茜にとって都合の良いものを全て差し出してくれると請け負ってくれたあの日。蘭丸はきっと自分自身に癒えることのない傷を残す楔を打ち込んだのだ。有り触れた幸せに辿り着くには、乗り越えるものが多すぎる。茜が拓人を諦めればそれで済む。そうかもしれない。けれど蘭丸は振り切る必要がない拓人の影を幼馴染として捉え続ける限り傷は残る。出し抜くような形は恋愛に於いては肯定されるのかもしれない。しかし蘭丸は肯定を望んでいたわけではないのだ。
 叶えようとも思えなかった、動けなかった恋がある。叶えようと思った、動くしかなかった恋もある。叶えようとは思っても、動けない恋もある。誰もが少しずつ間違えて、正しくはあれなかったけれど悪くはない。雁字搦めに囚われて、茜は結局成り行き任せの当事者だった。傷付きたくないと思う。だからこそ本気の一番の恋からは逃げ出してしまった。愛されないかもしれない、その可能性はとても恐ろしい闇だったから。だから初めから愛されるという前提を差し出してくれる蘭丸の手を取った。それはきっと茜の間違いだった。せめてもう少し、拓人への恋を引き裂いておかなければならなかったのだ。
 愛されるはずがないと逃げ出したくせに、愛してくれるという誘いに群がった。止まらない涙も、痛み続ける心臓も全てが茜の所為なのだ。
 だから。
 もう今更なのかもしれない。知れ渡った関係を払拭することをせず言葉を届ければ拓人は軽蔑するかもしれない。けれどそれでも今度こそ。こんな最底辺の自分を愛してくれた、愛してくれている蘭丸にこれ以上迷惑はかけたくないから。茜は今度こそ自分一人で立ち上がる決意をする。自分たちの関係がズタズタになったとしても、ここで止まってしまうよりはきっと、ずっとましなはずだから。
「霧野君、私シン様に好きだったって言うよ」
 瞬間、目の前の蘭丸の顔が絶望したかのように歪む。だけど、彼の瞳に映る茜の表情だって大差ない。安寧は崩れ去るだろう。平穏なんてものは、きっと最初から存在していなかった。


20120919