「優しいんだね、琉菜は」

 そう、無責任に薄っぺらい言葉を寄越されることが時折苦痛であったということを、琉菜はとうとう最後まで斗牙に打ち明けそびれてしまった。
 優しさで他人を靡かせて悪意ない者ばかりで固める。それはきっと自分が生きやすい場所を構成する為だった。間違っていない行為は、褒められることだって決して望んではいなかった。だけどどうか言葉にして指摘はしないで欲しい。身勝手が意識の端から琉菜を追い詰めるようになる前に、馴染んでしまえばよかった。斗牙がいてエィナがいてミヅキがいてエイジがいてリィルがいる。それだけで充分だったよと笑顔を作ることに嘘はない。ただ、幼い頃、たった一度の邂逅で芽吹いてしまった恋心さえ存在しなかったら、きっと自分はもっと心穏やかにサンジェルマン城でも過ごせていたのではないかということ。それだけが、ふとした瞬間に琉菜の胸にさざ波のような疑問を去来させる。突き詰めて引導を渡すことの出来ないほどの微かさで、それは何度も何度も琉菜の心を突く。
 ――私はみんなのことが好きだよ。
 唱えてみたとして。事実だものと更に唱えてみても直ぐに余計な言葉が続くことを琉菜はもう知っている。
 ――でもね、一番好きなのは、恋しているのは斗牙なの。
 今更隠しても仕方のない事実だった。この城にいる人間ならば大半が琉菜の気持ちを知っていた。それこそ、斗牙を除く全員と言いきっても良いくらいの認知度だった。だから意地でも実らせなくてはだとか、そういう窮屈な堅苦しさを覚えたことはない。基本的に琉菜の気持ちを知っている周囲というのがメイドという立場であったことが幸いしてか、守るべき節度はしかと心得ていると言わんばかりで、琉菜の恋は他者から応援も妨害もされることなくただ存在していた。進展することもないまま、絶えることもないまま。そして次第に理解していくこともある。どれだけ大切に仕舞っても、綺麗に飾り磨いたとしても。琉菜が斗牙に向ける恋心は決して実ることはないのだと。
 斗牙は頻繁に琉菜に「優しいね」と微笑んだ。嬉しそうに。だけどもそれは薄っぺらい、実のない態度だと琉菜は知っている。だって斗牙は、自分に悪意を以て接する人間に出会ったことがないのだ。優しくされることはメイドに囲まれて育った彼には当たり前のこと。優しさだけでは斗牙の歪に作り上げられた心の扉を開くことは出来ない。彼の本音に触れるには、その扉を壊すか、その歪な構造を理解して僅かな隙間から入り込んで同じ環境を共有するしかなかった。エイジやリィルのように。そして琉菜には、そのどちらもが出来なかった。壊すことも開けることも出来ないまま、部屋の中から漏れ聞こえる声は増えていく。仲間外れにされているわけではない。琉菜がその扉をノックさえすれば中から斗牙はひょっこり顔を出してくれるだろう。それが友だちであり仲間という距離感だった。彼女の恋を実らせるには、それでは遠いのだ。

「優しいんだね、琉菜は」

 鼓膜を揺らす言葉が琉菜の身体を硬直させる。直前までどんな会話を交わしていてこの言葉が吐き出されたのかを手繰る。ただ琉菜は、夜中に偶然キッチンで鉢合わせた斗牙に何をしているのか聞かれたから答えただけだ。突然琉菜の部屋に押し掛けてきたミヅキが酒を飲み過ぎているから水を飲ませようと思って取りに来ただけだと。メイドの誰かに頼めばよかったのかもしれないが、時間帯の所為もあってか誰にも出くわさなかった。それに食事の時間外で琉菜の自室に酒を持ち込んで来たミヅキの世話を押し付けるのも気が引けたのだ。彼女の自室だったのならばミネラルウォーターの類も常備されていたかもしれないのにと不満もたらたらに辿り着いたキッチンでまさか斗牙に遭遇するとは思わなかった。以前エイジの所為でメイドの仕事をこなした時以外、斗牙が普段ならばメイドたちの領域であるこの場所に足を運ぶだなんてことはないだろうに。
 そうは思っても、琉菜は何故か斗牙がこの場所にいる理由を尋ねそびれた。棚を漁り取り出したコップに水を注ぎ、後からキッチンに入って来た彼は琉菜の方をぼんやりと見ているだけで自分の用事を済ませようと動き出す気配を見せない。水場を使用したいのならば、琉菜の隣の水道は空いているのだからそちらを利用すればいいのに。まるで斗牙を邪険に扱うような気持ちに、琉菜自身戸惑いながら目を閉じる。水の勢いと、コップの容量。直ぐに零れて彼女の手を冷たい水が濡らしていく。斗牙には見えない角度、背中越し。けれど、シンクを叩く音の長さに不自然さは感じ取っているかもしれない。
 背後で斗牙が短く息を吸いこむ音がする。水の音に紛れさせて聞き逃せない自分の耳聡さが憎たらしい。意識の一つ一つ、研ぎ澄まさせる必要なんてないと壊れかけの恋心が訴えて来るのに。ただまだ在るというだけで斗牙に対し向かっていく琉菜の全てを操っているのもその恋心だ。

「琉菜、水、止めないの?」
「水、冷たくて気持ちいいからもうちょっとだけこのままにしとく」
「そうなの?」
「うん、ねえ斗牙はキッチンに何の用があったの?」

 顔を向き合わせることもないまま尋ねたことを妙だとは思わないで欲しい。裏を返せば何故さっさと用事を済ませて出て行かないのかという意味の言葉であることをきっと斗牙は察せない。それが単純に悔しいから、今は斗牙の顔を正面から見つめることが出来ない。

「用はないよ?」
「―――へ?」
「眠れないから散歩してたんだ。そしたら琉菜がここに入っていくのが見えたからどうしたんだろって覗いてみただけ」
「…何だそっかあ!じゃあ引き留めるみたいなことしちゃ悪いよね!私もう部屋に戻るから、斗牙もあんまり遅くならないようにね!」
「――琉菜?」

 思ってもみなかった斗牙の言葉に、琉菜は喜びよりも逃げ出したい気持ちが沸き起こる。慌てて蛇口を締めて濡れた手をそのままに振り返る。キッチンを出るには入り口付近にいる斗牙の隣を通り抜けなければならないことをわかっていたから、琉菜は意地で笑顔を貼りつける。これが斗牙の抱いている自分のイメージだろうと想像しながら。灯りをつけていないキッチンでは廊下から差し込む光だけが頼りで、もしかしたら琉菜の笑顔なんて見えないかもしれないけれど。だけども琉菜は笑顔を崩さない。でなければ直ぐにでも涙が零れてしまいそうだから。
 ――今更気に掛けてくれなくたって良いんだよ。
 もう終わるしかない恋だから。諦めは自然と琉菜の心を枯らして行って、斗牙の挙動にときめきよりも息苦しさを感じるようになった。それがもう、どうにもならないという証拠のようだった。だけどそうして恋が死んだら、自分が斗牙に差し出すもの全てが純粋な優しさに変わるんじゃないかだなんて思ったりもする。そしたら琉菜は、もっと自分を誇らしく思えるような気がしているのだ。そうなったところで、そんな自分を見せたい相手はもう存在していないのだけれど。

「ねえ斗牙」
「何?」
「私ね、全然優しくないと思うよ」
「え、」

 斗牙の前を通り過ぎて数歩、足を止めて、振り返る。笑顔は苦笑に変わり見つめる斗牙の表情は薄明りの中でもぽかんと口を開けて固まっているのがよくわかる。琉菜の発言の意味がわからないという風に。何故と問うように瞳が真っ直ぐに彼女を見据える。その視線には、暗がりを理由に気付かないふりをさせて貰う。自分がこれまで斗牙に優しかったのは、貴方のことが好きだったからかもしれない。それを一から説明するにはまだ彼女の中の恋心は完全に死んでいないのだから仕方がない。代わりに言葉を残すとしたら、「私よりミヅキの方がずっと優しいよ」といった所だろうか。だけどそれも言葉にすることはない。おやすみと言い残してキッチンを出る。部屋に戻る琉菜を流石に斗牙は追って来ないだろうし、来られても困る。
 だって、ミヅキが琉菜の部屋に来てくれたのは、斗牙への叶わない恋に落ち込む琉菜の話を聞く為だということを彼は知らないのだから。そして暗がりの中、涙で腫れた琉菜の目元に全く気付いてくれなかった斗牙はやはり優しさの意味を履き違えている、そう思った。自室への廊下を足早に戻りながら、琉菜はやはりこれは叶うことのない恋なのだと思い知り、せめて部屋に着くまではと零れそうになる嗚咽を殺す為に唇を強く噛む。無駄に広い城内が、この時ばかりは憎たらしかった。



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扉の向こうの隣人
Title by『告別』




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