※パラレル
※グラニルと刹那



 男を落とすには、胃袋からだと思うんだよねといつだったクリスティナが言っていた。その言はまさに正論であったと刹那は空腹を訴える腹を抱えながらマンションのエントランスホールを抜ける。向かうは八階。しかし非情にもエレベーターには点検中の貼り紙。念の為ボタンを押してみたがやはり反応しない。十階以上はある(正確な階数を刹那は知らない)マンションの上り下りを階段で行えというのか。絶句する。しかし他に手段はない。背に腹は代えられないと、刹那は鉄製の扉を開けてリノリウムの階段を上りはじめた。
 刹那は体力に自信がある。幼少の頃、少年兵として戦場を這いずり回っていた経験から俊敏性と、銃火器の扱いと体術の訓練は平和な国に流れ着いた今でも怠っていない。刹那が信仰していたはずの神はある日あっけなく死を迎え、取り上げられた銃と引き換えに差し伸べられた手の馴染めない温かさを今でも時々思い返す。あれはきっと、今刹那が目指している場所にいる人間が持つ熱と似ていたのかもしれない。免疫がなさ過ぎて、刹那はあっけなく戦災孤児として扱われていた自分を引き取ってくれた家を逃げ出してしまった。もっとも、刹那は一週間の内二日はその家で夕食をご馳走になっていたりする。距離感の問題だ。
 銃を取り上げられて、戦場から平和な都市に放り出されて。刹那は相手を殺せば生き延びられる前提を失ってしまってどこにも行けなかった。ぼんやりと公園のベンチに座り、中央の噴水を眺めながら時々ジャンクフードを購入し腹を満たす。初対面の人間に背後を取られ、挙句頭を撫でられてしまったのは平和ボケしていたとしか思えない。

「お前、いつもここにいるよな」

 降ってきた男の声は、お節介とお人好しの入り混じったものだった。ただ好奇心が滲んでいなかったことだけが、刹那が細めた眦を吊り上げなかった理由だった。
 刹那は片手間に済ませられるジャンクフードを好んだが、それでいて戦場を去ってから施された教育というものもこちらの世界で生きていく上では必要なものだと認めていて、だから口に食べ物を含んだまま喋るということをしない。元々無口な性質である彼には、食事中は静かにという教えよりも、食事は椅子に座ってテーブルの上に並んだ皿の上のものを家人と一緒に食べるという常識の方がいささか信じがたいことだった。刹那を引き取った人は女性で――とても根気強く、優しく、美しい人だと刹那は思っている――、なかなか戦場を離れた世界に馴染むことのできない刹那に辛抱強く様々なことを――落ち着いた食事だったり、柔らかなベッドの隅で丸まるのではなく足を伸ばして眠ることだったり、文字の読み書きだったり――教えてくれた。彼女は刹那にとって書類上の家族であり、人生の上での教師であった。女性から聞かされた、本当なら刹那も学校に通った方がいいのだろうけれどという会話から聞かされた教師、生徒、授業や教室といった内容は刹那を驚愕させ、放り込まれでもしたらとても我慢が出来ないであろうことを激しく首を左右に振って主張したこともある。実際、刹那は学校に通わされることはなかった。これは刹那が護身用にナイフを一本でも持たせてくれるなら構わないと最大限の譲歩のつもりの発言が、学校への最大級の拒絶と取られたためである。あの頃刹那はまだ自分の気持ち上手く表現することが出来なかった。今も似たようなものだったが、それよりもずっとひどかった。
 結果として刹那は学校に通わず、引き取ってくれた女性によって読み書きや基礎的な計算を教わり、彼女の友人から国際情勢を教わり、その恋人から交渉術などを教わり、そこからはもう関係の把握などできないまま縁あって引き会わされた大人たちから様々な専門分野の教育を受け、刹那はそのどれをも完璧にとはいえなかったけれどある程度身に着けていた。学校にも通わず、戦う必要も、それに備える必要もない彼には沢山の時間があった。何をして生きていきたいという展望はなかったが、何も持たず生きていくことはできなかった。だから刹那は必死に様々な知識を取り込んだ。きっと刹那の引き取り主の理想からは随分外れた育ち方をしたはずだ。押し付けることはしないけれど、彼女のような優しい人が自分のような戦災孤児を引き取るということは根底にある願いは何となく察しが付くことだから。
 十六歳になった刹那が出した答えは、結局一番自分に馴染んだ知識は経験によって培われたものだということだった。民間軍事会社でアルバイトとして働き始める刹那に、女性が切なそうに目を伏せたとき僅かに覚えた罪悪感。それが、精一杯刹那が育ててきた彼女への愛情だったけれど、だからこそいつまでも養われているわけにはいかなかったのだ。てっとり早く。刹那は俊敏であることは、悪いことではないと思っている。



 刹那が出会った男はロックオン・ストラトスと名乗り、それから偽名だと付け加えた。刹那はただ頷いて、自らも名乗ってから本名ではないが偽名ではないと加えた。彼の物言いに、ロックオンは笑った。ユーモアのつもりはないのだが、馬鹿にされているでもないし、刹那は黙って彼の笑いが収まってわざわざ話しかけてきた用件を切り出してくれるのを待った。不愉快には感じなかった。
 このとき刹那はロックオンと初対面であったが、彼の方は刹那の方を何度もバイト先の軍事会社で見かけたことがあるらしい。つまり彼は同僚だった。本人は知らなかったが、刹那の存在は彼の入社当時随分と話題になったのだそうだ。アルバイトとはいえ、まだ子どもの少年が事務方ではなくモビルスーツのテストパイロットや銃火器の性能調査で大人顔負けの結果を叩き出している。無愛想だったが礼儀知らずではない刹那は同僚の顔と名前を殆ど覚えていなかった。そういったところも、何かと人目を引いていた。
 ロックオン曰く、十六歳の少年が民間の軍事会社などに明らかに経験者と呼べる動きで飛び込んできて職場でも他人と関わろうとせず、やたらと公園のベンチで簡素な食事などしている姿ばかり見かけるものだからつい家出少年か何かかと心配になったらしい。そんな理由で話しかけてきたのかと、刹那はやはりこいつはお人好しでお節介だとロックオンの頭のてっぺんからつま先までを流し見て溜息を吐いた。

「――家ならある。きちんと……ではないが帰っているし、問題はない」
「いや、家があるならきちんと帰れよ。問題がないなら猶更」
「いらん世話だ」
「そうだろうけどさ、それでもだ」

 別に帰りたくないわけではない。ただ刹那は考えることができるようになり、それから動けるようになった。反射的な獣のような動きではなく、人間らしく生きていけるように色々な大人たちに世話になった。そうするとやはり、そろそろ独り立ちするべきなのだろうと思ってしまうのだ。書類上、女性と自分が親子なのか姉弟なのかは実は知らない。ただ家族として扱われてきたしそのことに感謝している。感謝してしまったら、そうしたら刹那はそれからどうすればいいのだろう。わからなくて、ただ気付いてしまったら怠惰に現状を維持するわけにもいかなくて、家を出るなどしてみている。刹那・F・セイエイ、十六歳。絶賛迷走中なのである。
 それからロックオンとどのようなやりとりをしたか、刹那は覚えているけれど思い出さない。出会った公園から数分の場所にある彼のマンションで夕食をご馳走になり、それから腹が空いたときに気紛れにチャイムを鳴らすようになった。それだけだったし、それほどのことだった。知り合ってみると、ロックオンと刹那の仕事場は同じで彼もまた新型モビルスーツのテストパイロットだった。ただ接近戦主体の機体の調整をしている刹那とは違い、ロックオンは完全に長距離射撃主体であったので滅多に一緒に作業をすることがなかった。それならば認知していなくても仕方ないと一人納得する刹那の頭を、君が人の顔と名前を覚えないことに理由づけなどいらないだろうとティエリアが手にしたファイルで叩いたので腹いせに足を踏んでやった。ロックオンと知り合ってから、職場の人間と会話する機会が増えた気がする。表情にも声にも出さないけれど、刹那はそれを悪くないことだと思っている。
 体の良い餌場を得た野良猫のようだと、ロックオンは刹那に夕飯をご馳走になりながら笑う。一人暮らしのマンションのリビングに設置されている食事用のテーブルはしかし四脚で、だから刹那が押しかけても席は余っている。
 刹那はロックオンの部屋で食事をする以外のことはしなかったが、それでも何人か職場の人間と鉢合わせたこともあるしロックオンの双子の弟とも顔を合わせた(この際、ロックオンはあっさりと刹那に本名のニールという名を教えてくれたが、呼んだことはないし呼ぶ予定もない)。随分と多くの人間に慕われていて、自分に声を掛けたのももはや習性だなと箸で白米を口に掻き込みながら納得する。ロックオンの作る食事はどれも美味しかった。見た目に似合わず――失礼だろうか――家庭的な味だ。これなら結婚して嫁を貰う必要もないのだろうかと、ロックオンの気が移ったのかお節介な想像を膨らませかけて、そもそも彼には恋人がいたのだったと目を閉じながらもぐもぐと白米を咀嚼する。
 ロックオンの恋人は所謂職業軍人で、初めて刹那と出会ったのは当然この部屋でやはり刹那は食事をしておりロックオンはソファで寝ていた。夜勤明けの朝のことで、起こすのは申し訳ないと食べるものだけ食べ終えたらきちんと後片付けをしてからさっさと帰ろうとせっせと箸を動かす刹那の前に、その男は現れた。
 整った外見をしているなというのが第一印象で、眠っているロックオンに向かって「眠り姫」などと言い出したところでこいつは頭がおかしいのかもしれないというのが第二印象だ。彼がロックオンの恋人だと知ることになるのはもう暫くしてからのことで、男同士ではないかとか、初対面のあの日恋人の家に見知らぬ人間がいたことを華麗に無視していたことだとか、そんなことは刹那にはどうでもよくて、目下の問題はロックオンの恋人であるグラハムがどうやら刹那のことを気に入ってしまったことであった。
 勿論ロックオンを裏切るような関係ではなくて、ロックオンが刹那にやたらときちんとした食事を与えるように、グラハムは刹那の持つ技術、それを生んだ背景を愛し、モビルスーツの操縦技術があるとはいえ一般人である彼を軍の演習場に引っ張り込んでフラッグで模擬戦をしようと画策したり――グラハムの友人にこっぴどく叱られて刹那はこの難を逃れている――、刹那がテストパイロットとして開発に携わっているガンダムのプラモデルを作ろうとしたり――これには刹那も乗っかりかけて上司である酒飲みの女性に怒られた――、偶には外で一緒に食事でもとグラハムとロックオンの間を歩かされたこともある。

「いいのか」

 当然、こんな問いを投げずにはいられなくなる。刹那はロックオンのマンションを、初めて食事を目的とせずに訪ねた。グラハムは仕事で一ヶ月どこか外国に(守秘義務というやつで、詳細は話せないとのことだった)出向いている。いい大人の、恋人の時間に自分のような子どもを割り込ませて何になる。人目を憚るというには、二人とも節度ある大人だった。不審な目など向けられない。盾にだってなりはしないだろうに。
 だが問われたロックオンは、出会った日と同じように刹那の頭を撫でて笑っていた。

「俺たちは大人だからさ、仕事以外、やりたいようにやってるだけさ」

 まあ、仕事も大概やりたいようにやってるけれども。心からそう思っていると言わんばかりに刹那の頭を撫でるというよりは髪を掻き乱す様にして、ロックオンは笑っていた。流石に鬱陶しいと彼の手をどけて、乱される前からぴょんぴょん跳ねている癖っ毛を適当に撫でつけた。手を離した瞬間に、また跳ねるだろう。

「お前がいると、俺の周りは賑やかで楽しいよ」

 それはこっちの台詞だと、刹那が言い返すよりも早くロックオンはキッチンに引っ込んでしまった。

「食べていくだろ?」

 振り向かずに投げられた誘いに、刹那は黙って頷いていた。



 あれからだいぶ時間が経ったと思いながら、刹那は階段を上りきった。
 相変わらず刹那はアルバイトでモビルスーツに乗っていて、自分を引き取ってくれた女性の家に暮らしている。公園でジャンクフードだって食べているし、それで腹が満たされないとなればロックオンのマンションに突撃する。グラハムとは少し前にモビルスーツが無理ならと素手で模擬戦を行い不本意ながら負け越した(ので再戦を所望している)。グラハムとロックオンは刹那よりずっと大人だったがそれでもどうでもいいことで喧嘩をするしそういうとき刹那は大抵ロックオンの味方をすることにしている。食べ物の恩は重い。
 目当ての部屋の前に辿り着き、チャイムを鳴らす。合鍵は流石に図々しからと渡されそうになったときにはっきりと断った。それからも、刹那は以前と変わらない頻度でこの部屋を訪れている。
 開いた扉の向こうには、刹那を満たす世界が待っている。


―――――――――――

満足
20150219



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