子どもというのは、突拍子のない生き物だ。思いつきで行動し、それがツボに入ろうものならば同調する人間がいなくともブームが去るまで同じことを繰り返す。今回の浩一の行動も、結局はそういうことだ。

「室長!室長さんってば!」

 背後から声がする。ここのところずっとである。だが森次は振り返らない。進行方向だけを見据え、しかし意識は周囲に配りつつ真っ直ぐに歩く。規則正しい、凛とした足音の後からばたばたと忙しなく不格好な音が続く。それがぐえっと情けない声と共に途切れたから、森次は溜息を吐き出してから肩越しに視線だけを背後に送った。そこには予想通り、早瀬浩一が転んだまま倒れていた。
 森次は浩一に歩み寄らないし、だから当然立ち上がる為の手など貸すはずがない。子どもには出来るだけ力強く自立して貰いたい。そんな子育て方針を抱いているわけでもなく、甲斐甲斐しく浩一に手を差し伸べる自分の姿が不格好な気がしているだけ。それから、機嫌が良くないことも理由の一つ。その原因が情けなく転がっている浩一であれば優しくしてやる気も失せるというものだ。
 JUDAの特務室室長である森次のことを、大抵の人間が森次と苗字で呼ぶ。付随する敬称は立場により異なり、下の名前で呼ぶのは幼馴染と今は亡き姉くらいのものだった。浩一とて例外ではなく、普段は森次を苗字にさん付けという、適切な呼称で以て呼んでいたのだ。それがここ数日、何を思ったのか浩一は森次のことを室長と役職名で呼び始めたのである。名前よりもどこか距離を感じる振る舞いに、自分に対して何か腹を立てているのだろうかと疑ってみたものの心当たりがない。尤も浩一の沸点では森次では思いも寄らない点で臍を曲げる可能性もあったのだが接する態度から見ていても怒りを滲ませているようにも堪えているようにも見えない。となると後は単純に思いつきで遊んでいるだけなのだ。その遊びが森次を不快にさせていることなど想像もしない浩一は、寧ろ普段より積極的に森次に声を掛けてくるようになった。要するに、浩一は森次を室長と呼びたくて仕方がないらしい。

「だって森次さんを室長って呼んでるのってJUDAじゃレイチェルだけじゃないですか。何か希少価値があって良いなあと思って!」

 本人はきっと、これ以上ない好意的な理由を挙げているつもりなのだろう。レイチェルだけの特別が羨ましいと、素直でないなりに伝えようとしていることはわかる。だが科学者と室長の距離感に憧れてどうするのだと叱りつけたい衝動を森次は必死に押し殺した。
 冷静に考えれば、それだけ森次とレイチェルの関係がJUDA内に限定された場でしか広がりのないものだということに気付けるはずだった。仮にも付き合っているはずの自分たちが、何故JUDA内でしか通じない呼称を連呼されなければならないのか。森次も基本的に己の道を進む人間である為、大人げないとか、そういった言葉を向けられても全く気にしない。どうしたら浩一に訪れた室長呼びのブームを終わらせることが出来るか。それだけが彼にとって目下最大の懸案事項なのである。
 そんな回想を終えた森次が視線の焦点をまた浩一に合わせると、何と彼は未だに床に転がっていた。いい加減起き上がったらどうだと思いながら、まさか本当に打ち所が悪かったのかと案じる気持ちも瑣末ながらに湧いてくる。しかしファクターの身体能力を以てして受け身もとれないとは問題があるし、まさかJUDA社の床が異常なまでに硬いということもないだろう。

「――早瀬、」
「鼻、打った」
「は?」

 森次に声を掛けられて、漸くもぞもぞと浩一は動き始める。上体を起こして、スーツの袖で鼻下を押さえる。どうやら鼻血を出したようで、それ自体は慣れているのか動じた様子はない。だがそれなりに値の張るスーツに鼻血を吸わせるのは如何なものか。しかし他に持ち合わせがないのだから仕方がないかと、森次はどこまでも浩一を傍観する。どこまで世話を焼いてやるべきなのか、間合いを探っているとも言う。やがて出血は止まらないが気持ちは落ち着いたのか、浩一は立ち上がり小走りで森次の元までやって来る。
 そういえば、森次を呼び止めようとして転がったのだということを思い出し、それならば何か用事があるのだなと浩一の次の言葉を待つ。

「室長、」
「…………」
「もしかして、室長って呼ばれるの嫌いですか」
「お前にそう呼ばれるのは好かないな」
「じゃあ森次さん」
「何だ」
「別に用事はないです」
「………、」
「最近機嫌悪いのかなって思って、でも室長って呼ばれるのが嫌だったなら早く教えてくれれば良かったのに…」

 子どものように唇を尖らせる浩一に、森次は気掛かりだった事態が一気に解決してしまったことへの安堵よりも肩透かしを食らったような気持ちに包まれる。そして成程、これが大人げないということかと理解した。浩一が室長と呼んでくることに気分を害し、その呼び声を聞こえないふりをして後ろを必死に追いかけてくることに喜びを覚えて不機嫌を相殺していた。
 しかし思いも寄らない思いつきに振り回されたことも事実なので、今度は浩一に下の名前で呼ぶように迫ってみるのもいいかもしれない。きっと、恥ずかしがって慌ててくれるだろう。そんな想像に浸っていると、浩一が聞いているのかと森次の腕を引っ張る。その拍子に抑えを失くした鼻血が垂れそうになるのを、森次は咄嗟に自分のスーツの袖を押し付けて防いでいた。申し訳ないと上目遣いで見上げてくる浩一に、自分がさっさと反応してやっていれば彼が転ぶことはなかったからという文句は呑み込んでおいた。




お前が笑っちまったら負けになるのだ
Title by『ダボスへ』
20130607




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