慈しむように漫然と、微笑むほどに緩慢と。妨げられない眠りが至福と知ったのは戦艦の中だった。守りたいと願った少女の手が、おやすみと髪を撫ぜる感触を覚えている。守られているのだと自覚するのは容易かった。二人して子どものまま、それよりも小さな子どもを抱き締めて未来への希望を見ているようだった。それはきっと、あまりに悲しい大人への近付き方だった。
 枕元にセットしたアラームがけたましく鳴り響いた。枕に顔を埋めながら手だけで探れば毎朝のように掠りもしない。諦めて身体を起こして、アラームを止める。爆音に比べればどこまでも柔らかい音。それでも住宅内では喧しい。階下から母の呼び声が聞こえる。起きているよと返事をして、ベッドから降りた。カーテンを開けて、差し込んでくる朝日に目を細める。寝ぼけ眼はいつの間にかどこかへ去って行った。着替えを済ませてから、一階へ降りて顔を洗う。冷たい水が心地よかった。そして漸くリビングへ。既に用意されている朝食を前に、定位置の椅子へ腰掛ける。

「――父さんは?」
「もう家を出たわよ」
「また?最近朝はずっと早いんだね…。昨日は帰りも遅くて会えなかったし…」
「あら、寂しいの?」
「違うよ!」
「寝癖が直っていないわ、キオ」
「あとでまた直すよ。寂しくないからね!」
「はいはい」

 テーブルの上に並んだジャムの瓶を手に、キオはキッチンの母に向かって父とのすれ違いに対する己の立派な自立心を示そうと声を掛けるもどうやら朝は忙しいという通例によりいまいち真剣に取り合って貰えない。憤然たる思いだと苺のジャムを塗ったトーストに齧りつく。均等に広げられないジャムに口元と指を汚している内はまだまだ寂しがり屋の子どもとして丸め込まれてしまうということにキオはまだ気付かない。液晶画面から流れるニュースを横目に聞き流し、当たり前だった戦争の話題が完全に消えずとも徐々に減っていることを確認する。実際には、減っていると信じたい、その為の補強活動だ。
 全てが終わったわけではなくとも、地球とヴェイガンという対立の図形は瓦解したはずで。キオに戻ってきた日常はあのオリバーノーツでガンダムに乗り込んだ日とは別物となったが再び学校に通える程度の平穏は取り戻していた。祖父や父を手伝う傍ら、学校を卒業したらその手伝いを本職にするという意志を持って、今はその為の準備期間として意欲的に勉強に取り組むキオの姿は、アスノの人間には逞しくもあり、物寂しくもある。それでも、自分の意思で決めた将来に、きっと寄り添ってくれるであろう友人の姿を認めれば不安はなかった。
 ニュースが天気予報に切り替わる。毎朝、このタイミングまでに朝食を食べ終えていなければ若干のペースアップが必要だった。キオの視線が液晶画面にばかり向いている間にロマリーが彼の正面に腰を下ろしていた。慌てとそぞろな視線の所為でぼとりと落ちたジャムが白いテーブルクロスを汚した。呆れた顔の母に、キオは気まずげに顔を逸らしてトーストの残りを平らげた。これから手を洗い、歯を磨き、それから寝ぐせを直さなければならないのだ。しかし口内の咀嚼が終わるまでは席を立たない行儀の良さは、アスノ家の躾の賜物である。尤も、キオの教育に強い影響力を持っていた肝心の祖父が、キオ程度の年齢の頃は夜更かしを繰り返し朝は慌ただしくトーストをかじり迎えにきたエミリーに叱られながら学校へ急いでいたという年頃な事実を彼は知らない。

「ごちそうさま!」
「はい、それじゃあ急ぎなさい。そろそろウェンディが迎えにくるわ」
「わかってる!」

 賑やかな朝だ。母子二人、やがて鳴るベルを思えばキオの心は逸る。昨日も、一昨日も。寝坊はしていない。ただ微睡みが長い。夢を見られる、そんな浅瀬がキオを柔らかい寝具に縫い付ける。キオより短い睡眠時間で活動している両親を思えば怠慢だろうか。けれどそれは、大人の話だから。

「キオー!」

 呼び鈴よりも早く、遠くウェンディの声が名前を呼ぶ。反射で「ちょっと待って!」と叫んでいた。聞こえただろうか、心配になって、しかし準備を終えずに外に飛び出すのも手間だ。逡巡していると、ロマリーがウェンディを招き入れて何やら会話する気配がした。安堵して、それでも手早く歯磨きを終わらせて部屋に荷物を取りに戻り玄関へ駆けた。自分の友人と母親が親しげに会話に花を咲かせている光景はどうしてか居心地が悪かった。
 だから、ロマリーに行ってきますと言い残すと同時にその横をすり抜けてウェンディよりも先に外に出た。文句が飛んでくるとはわかっていてもそうした。案の定、背後から折角待っていてあげたのにと不満の声があがる。短い謝罪と、ちらり背後を伺えばロマリーはにこやかに手を振って二人を見送っていた。行ってきますと手を振り返すのは、どうしてかウェンディの役目だった。

「聞いたよ、キオ、お父さんに会えなくて寂しいんだって?」
「寂しくないよ。ただ朝早く起きて夜も遅い日が続いてるから心配だっただけ」
「ふーん」
「父さんだから、大丈夫だとは思うんだけどさ」
「キオ、いつの間にかお父さんっ子になったよね」
「へ?」

 母親には打ち明けられなかった本音と言い訳半分ずつの言葉にウェンディが納得してくれたか。返ってきた言葉にキオは全くの無自覚で間抜けな声を出した。意外そうに目を丸くしたウェンディは、まあ悪いことではないのだからと構わず学校への道を進む。
 隣に並んだキオが、まだウェンディの言葉が正しいかどうかを真剣に思案しているようで、難しい横顔も随分幸せな悩みを持てるようになったと立ち返った日常を自覚する。これから自分たちが向かう場所は格納庫ではなく学校であるという、もはや当たり前のことをウェンディは幸せと理解し、噛み締め、キオと共に未来を行くと決めている。身勝手な決意かもしれないが、毎朝キオを家まで迎えに行く習慣が無くならない内はそんな考えも許されるような気がした。

「キオ、寝ぐせついてるよ」

 こんな風に、キオの後頭部で跳ねた寝ぐせを指でつついてやれる、その間は。
 何とも平穏な、ありふれた朝の風景だった。



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やさしさが溶けた朝
Title by『弾丸』




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