送り火だった。散った命の灯だった。水面を流れて行く灯籠を見つめるウェンディの表情はキオには見えなかった。上流を見て、下流を見て、暗闇の中にぽつりぽつり灯る火を数える気にはなれない。
 どれだけの命を見送らなければならないのか、その全てを、事細かに知ることはキオにはできない。ただ覚えていようと誓った、己の至らなさだとか、無力さだとか、現実の濁流の非情さだとか、戦争という二文字が耄碌させた沢山のこと。覚えたまま、振り返らずに前を向いて進み続ける。容易くはないようで、だけどきっとできる。キオの背中はいつだってウェンディが支えてくれている。

「――ウェンディ?」
「……なに?」
「泣いてるの?」
「泣いてないよ」
「泣きそうなんだ」
「わかんない」
「……そう」

 しゃがんでいるウェンディは、隣に立つキオからは俯いているように見える。目元を指で拭ったものだから、てっきり泣いているのかと思った。微かに震える声は、確かに泣いてはいなかった。それでも、きっと何かきっかけがあれば彼女の涙腺は決壊してしまうのではないかと、キオは危ぶんだ。付き合いは長い筈なのに、キオはウェンディを慰めることに対して得手ではなかった。子ども同士の、ほんの一年の差は意味など成さず幼馴染として顔を付き合せてきたのに、段々と、男女という差は二人を遠ざけ始めていた。
 暗い波紋が足元、すぐ傍まで広がる。これは誰の遺言だろう。聞こえないけれど、此処にはもういない魂だけれど。それでも送らなければ、生者すら未練に足を取られて溺れてしまうだろう。自己満足だと、死者は生者を謗れないから。
 纏わりつく夜の気配が、送り火と夏の熱気を孕んで、静寂とは程遠い無音の喧騒でキオを眩ませる。ウェンディが沈黙を湛えていることが、酷く不安だった。どうしようもない、手持無沙汰な悲しみに取り込まれそうな自分を救い出してくれやしないかと期待していた。空を見上げる、星が瞬いている。地球から宇宙へ、星との距離を縮めても手には掴めない輝き。コロニーの人々は、火星圏で暮らしていたヴェイガンの人々は、太陽が沈めば当たり前のように浮かび上がるこんな景観にすら地球の美しさを褒めそやさずにはいられない。
 それは苦しみの歴史だった。当たり前を渇望するが故の憎しみだった。希望の灯はどす黒い血の色をしていた。キオの前を、また誰かの灯籠が流れて行く。ふらふらと頼りない、揺れて、先を行く多くの送り火を追う。
 どれくらいの時間、キオとウェンディは随分黙り込んでいた。そうしてふと、下流を見れば遠く川が燃えているのかと思う程の橙が水面を覆い尽くしている。それほどの輝きを放っても、灯せていない、散った命がまだ自分たちの周囲を彷徨っている。送り火が牙をむいて己の肉を焼きはしないか、その痛みはどれほどか、キオは想像して、及ばないと首を振る。痛みを知れども、死を知らないキオの想像の中の痛みは結局はごっこ遊びでしかない沈黙を貫く姿は数分前からずっと変わっていないのに、ウェンディはキオの不穏を感じ取ったのか、弾かれたように顔を上げて彼を見た。瞳は不安と叱責、ベイリーフの瞳は夜の所為でその色彩を捕えることはできない。それなのに、瞳の奥に瞬く輝きだけはやけにくっきりと浮かび上がりキオの眼前に迫る。それは眼差しで、ウェンディがキオに向ける、愛情の仕草だった。

「――もう、流れてこないね」
「そうだね。みんな下流だ」
「キオは誰を送ったの?」
「――沢山の人。シャナルアさんや、ルウや、ディーン、ジラードさんや、イゼルカントさんも。アビス隊の人やヴェイガンの人たちも、本当はもっと沢山、送らなきゃいけないんだ」
「でも、そんなに大勢乗せたら、灯籠、沈んじゃうね」
「うん」
「一等大切な人を、まずは送ってあげればいいんじゃない?」
「一等?」
「うん、一番大切な人」
「………」

 キオが矢継ぎ早に挙げ連ねた名前を、ウェンディがどれほど聞き取れたか。だがキオが自分よりもずっと誰か、その手で殺し、その手で守ることができなかったと悔いている相手が多いことを知っている。ウェンディとてあの戦場で多くの死者を見てきた。怪我人を含め、また生きていても手を施すだけ無駄だとトリアージのタグを取りつける感触を忘れることはない。けれどウェンディが流した灯籠で送った人は、恐らく、誰でもなかった。
 ただ安堵する。キオを送らないで済む、現在を祈った。その薄情さが、悲しかった。もしも人間の内にある愛情に上限があるのならば、きっと自分はキオに傾きすぎてしまったに違いない。他者に向けるだけの情が薄いことは仕方ないと開き直る言い訳があればよかった。けれどウェンディはそこまで自身に酔ってはいなかったから、悲しいのだ。

「――帰ろう、ウェンディ」
「キオ?」
「もう、火も遠いから。いつまでも見送りに立つのは、却って相手を引き留めることになるよ」
「…いいの?」
「うん」

 キオが手を差し出して、ウェンディはその手を頼りに立ち上がった。迷うことなく川岸から離れて行くキオに引かれて彼女も先程まで頬を火照らせていた熱気から遠ざかっていく。
 静かな夜だ。住宅の明かりまではまだ距離がある。土を踏む感触と、不意に当たる小石の音。虫の鳴き声を聞き、瞼を閉じたウェンディの瞼の裏にはまだ川面を焼き尽くさんばかりの悲しい炎が広がっている。キオは誰を送ったのか、得られなかった答えを再び尋ねる勇気はなかった。支えると誓った背中、目を逸らさないと誓った背中、もう、背中ばかり見つめた日々は終わったはずなのだ。
 キオもまた、あの灯籠に一等大切な少女を送らずに済んだことを喜びの内に罪悪として言葉を潰すしかない痛みを抱えていることを知る由もないまま、ウェンディは繋いだ手をそっと握り返した。視界の端を過ぎった蛍は、送り損ねた魂の幻だ。



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夜闇にうかぶ
Title by『弾丸』





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