ホットココアが好きだった。そう回顧する父の隣で、キオは幼い自尊心から僕はコーヒーが好きだと言った。キオよりもずっと高い位置にある父の瞳が僅かに驚きで揺れた。その反応はキオを満足させて、同時に増長させもした。だから、正確に言うならばミルク入りでなければならないという情報を削除した。

「じいちゃんが淹れてくれるコーヒー、美味しいよ」

 代わりにすげ替えた情報は、父を物悲しくさせたらしい。祖父が孫に注ぐ愛情は、息子に愛情を注がなかった父からでも正しく伝播するようだ。勿論、フリット・アスノという人間が、アセムの理想通りとはかけ離れていても、彼なりに愛していたことは知っている。しかし息子という血の繋がりを無条件にはしない父は、戦時下という現実を無条件に息子に押し付けて選択を迫ってきたからこじれた。
 優しく賢い母は傍にいてくれるから好きだった。親子であれ過ごした時間と場所は相互理解に多大な影響を持つ。心だけは離れても繋がっているだなんて戯れ言は、一度でも強固に結びついた者にだけ許される真実だ。同じように、アセムもまた良き父ではなかった。

「ねえ父さん、今度僕が父さんにコーヒーを淹れてあげる。豆の挽き方はじいちゃんのをちょっと見ただけだけど――母さんに聞けば教えてくれると思う。僕はミルクを入れるんだけど父さんは砂糖とミルクは――あ、」
「どうした?」
「僕、ブラックは飲めないんだ…。まだ」
「まだ」
「大人になればブラックでもコーヒー飲めるようになるよ」
「そうか」

 アセムは父にコーヒーを淹れて貰ったことはない。しかしそんなことでキオに嫉妬できる劣等感は彼が生まれるよりもずっと前の戦場に置いてきた。だからそんな気を遣わなくてもいいと撫でるより早く。キオはまだ発達しきらない己の味覚を背伸びで誤魔化そうとしたことを照れ隠しに笑った。父の感傷を察知する繊細さ、父に認められたい、より良く映りたい純粋さ。大人がイコール良いものとは限らないことをキオは知っていたけれど、親子に過ぎる憧憬はそんなものだ。
 父の腰に抱きついて、顔を押し付ける。甘えたい盛りはとうに終わっているはずの少年は、アセムの前でだけは生まれたての赤子と変わりなかった。取り戻せない親子の時間。祖父と父は時々錆びた歯車のように噛み合っていてもぎこちない。それはこの先少しずつ変わっていくに違いない。血を分けた親子なのだ。だから自分たちもきっと、そんな確信がキオにはある。アセムはもう何処にも行かない。家族を置いては、何処にも。

「父さん、父さんはお菓子作れる?」
「――?いや、お菓子は難しいな」
「ウェンディがね、スコーン作るの凄く上手なんだ。美味しいんだよ?だから今度頼んで作って貰うよ。それで僕がコーヒーを淹れてあげるから、コーヒーとスコーン…他にもリクエストがあれば言って?用意するから!」
「キオ、」

 これからはずっと一緒。そう信じているのに、キオの立ち振る舞いはまるで客をもてなすホストだ。最高の時間を提供すればまた足がその場に向くと信じている。その必死さがアセムには寂しくもあり、優しい子に育ってくれたと喜ばしくもあった。腰に抱きついている腕は、じゃれ合いじみてしかし縋ってもいる。ここまで息子を不安がらせる父親となってしまった自身への不甲斐なさにアセムの胸は押し潰されている。だがこのまま押し潰されて終わっては何も変わらない。アセムが家族を取り戻す戦いの為に舞い戻ったというならば、キオをこのままにしてはいけないのだ。アセムはキオの客ではなく父なのだから。

「キオ」
「…何?」
「昔――ロマリーが弁当を作ってくれたことがあるんだ」
「母さん?」
「ああ、学生時代にな」
「…美味しかった?」
「一仕事終えた後だったし、ロマリーが作ってくれたものだしな、美味かったよ」
「どんなお弁当だったの?」
「サンドイッチだな。中味は色々豊富だった」

 両親の昔話は不思議なもの。戦死扱いの父の話題が悲しみを理由に禁じられていたわけではない。母は頑なに、正常に父の無事を信じていたくらいだ。けれど積極的に尋ねたことはない。写真も残っている。しかし大人ではない両親の姿は、齢の問題ではなく、永遠にアセムとロマリーの子どもであるキオには描くことが困難な空想だった。
 母の手料理は好きだ。十三年間遠ざかっていた父もきっと。思い出話を持ち出したアセムの意図は読めず、だかいつか母が作ったお弁当を持って家族で出掛けたいものだと願う。絵空事ではなくなった、キオが取り戻した権利。
 魔法瓶にキオの淹れたコーヒーを入れて、母の作ったお弁当を持って。では父は――荷物持ちか、運転手だろうか。それもいい。幸せに、猫のように喉を鳴らして擦りよる。ふりほどかれない熱が宝物。困ってもいないのだ。だからもう暫くはこのまま。
 そんなキオの、母親似の栗色の髪を撫でながらアセムは笑みを浮かべている。彼もまた幼少時は母親似と言われ続け、父親似と言われたいコンプレックスを混ぜた男心に触れたものだが実際父親になってみればキオがロマリー似で安堵する。外見もさることながら、自分のようにだけはなるなよと言い切れてしまう足跡がある。胸を張れる父親まではまだまだ遠い。

「ロマリーに頼んで菓子作りでも習うか」
「…?」
「スコーンはウェンディが得意なんだろう?何か別の物を作れるようになりたいな」
「……ココア」
「ん?」
「父さんの作ったココアが飲みたい」

 お菓子ではないけれど。特製と付くほど極めたものでもないけれど。父の好きなもの、その思い出。キオが知りたいと願うものはどこまでもささやかな父の影。断られやしないかと見上げてくる我が子の瞳を輝かせる為にアセムの返事など決まりきっている。今日のティータイムは、ホットココア二つに決定だ。


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美しきエンドロール
Title by『弾丸』


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