予備校から帰って、とにかく先に晴矢と話そうと携帯を開く。しかし合宿の一日の流れを詳しく聞いていない俺は、まだ夕方の時間帯に晴矢に電話してもあちらは忙しいかも知れないというまた余計な気遣いが顔を出してしまって、「夜に時間取れたら電話くれ」とだけメールして、予備校で出された宿題を終わらせることにした。
 余談だが、俺の部屋の冷房は働くべき季節である今、見事に故障している。その為、最近は自分の部屋ではなく冷房の利いたリビングで勉強するようにしていた。
 ダイニング式のキッチンで、母さんは夕飯の準備をしている。鼻歌混じりで何か食材を切っているらしい母親の顔を視界に捉えながら、俺は喋ることもなく黙々と問題を解いている。

「ねえ茂人、あなた進路の第一希望はどこにしたの?」

 調理の手を止めずに、鼻歌から流れるように聞いて来たものだから、一瞬話しかけられたかどうかも分からずにぼけっとしてしまう。
 母さんの言葉を反芻して、そういえば一学期に学校に提出した進路希望調査表はあくまで希望だからと、先に親の判子だけを貰って近所の大学名を書いて提出してしまったのだ。因みに、俺は未だに自分の進路に関してはその程度の淡い展望しか抱いていなかった。
 両親が、やりたいことがないのなら大学に行ってからゆっくり考えなさいなんて言ってくれたから、その厚意に甘えて悠長に考えていた。その後の晴矢の東京に行くという話を聞いて、自分の適当さに若干の疑問を抱いたりもしたけれど、それも晴矢と杏の問題を持ち出して棚上げにしていた。

「とりあえず、隣町のK大」
「あそこね。まあ近場ならお母さんとしては安心だけど…。茂人はどこか此処に行きたいっていう希望はないの?」
「……別に、ないよ」
「そうなの?あ、そうだ。晴矢君と杏ちゃんはどこに行くの?」

 流石に大学は別々よねえ、なんて笑って言い出す母さんに、俺は何も言い返せなかった。親にすら「流石に」と前置きされてしまうのだ。俺たちは、今までどれだけ三人で引っ付いていたのかを最近になって様々な所で思い知らされる。それでも、俺たち自身としてはまだまだ離れたくないと思っているだなんて、きっとまた母さんは笑うだろうから、言わない。

「杏は、詳しくは聞いてないけど。多分俺と同じで近場だよ。晴矢は…東京の大学でサッカーするんだってさ」
 今更だけれど、俺は杏が自分の進路をどう考えているのかを詳しく知らない。本人の様子を見る限りは、この地元から離れる予定はなさそうだし、具体的な夢等を語られたこともなかった。
 晴矢が東京に行くというのは、母さんも初耳だったらしく、それまで響いていた食材を切る音が、突然まな板を叩いたような音に変った。幼馴染同士、母親もそれなりに仲が良かったので、正直もうとっくに聞いているものとばかり思っていたのだが。

「晴矢君、東京に行っちゃうの?」
「まだ決定ではないけど…あっちからのスカウトみたいだし、たぶん決まりかな」

 出来るだけ世間話をするみたいに、なんとも思っていないみたいに言葉を選んだけれど、いざ言葉にして再生してみると、本当に晴矢は遠くに行ってしまうんだなと思えた。今夜晴矢から電話が来た時、俺はちゃんとアイツの話を聞いてやれるか自身が揺らぐ。もっとも用があって話をしなければならないのは俺の方なんだけれども。

「寂しくなるわねえ…。杏ちゃんも、茂人も」

 今までの会話の声よりも幾分優しいトーンで発せられたその言葉は、まだ幼稚園児位の子どもに言い聞かせるような温かさで。ここ最近、晴矢と杏の間を上手く取り持ってやらなきゃとばかり思いつめて、無意識に張りつめていた俺の神経をいとも簡単に決壊させた。――そうだ、そうだよ。

「……うん、寂しいよ。俺も、杏も」

 晴矢の決意を聞いてから、思っても決して口には出してはいけないと勝手に決め込んでいた言葉を、俺は初めて音に乗せた。もしかしたら、俺は杏以上に寂しがり屋なのかもしれない。
 母さんは、突然情けない声を出した俺を愛おしむように微笑んで見ている。高校三年生にもなって母親の前で涙が零れそうになるなんて恥ずかしいなと思う。だから、恥ずかしさが混じり始めた所為で余計に情けない表情を浮かべている顔を慌てて伏せて、止まっていた宿題の手を動かそうとした。

「……でも、同じくらい応援してる」

 そう言うと、母さんは益々微笑ましい物を見るような目で俺を見てくるものだから、俺は今度こそ宿題に集中しようと問題集のページを捲った。