最初は晴矢の言葉に取り乱してしまっていた杏も、俺達が彼女のいる空き教室に戻った時には大方落ち着いていた。ドアを開けてれば、遅いと見事に悪態つかれた。そのまま、表面上は三人で他愛ない会話に興じながらいつも通りの昼食を取った。あくまで、表面上は。普段より饒舌に話す杏は、きっと晴矢に話しだすタイミングを与えたくないのだろう。それが、まだ自身の中で整理が出来ていないからか、晴矢の決断を否定したいからかは、俺には分からなかったけれど。
 その露骨過ぎる杏の態度は、晴矢の出鼻を見事に挫いてしまったらしい。俺の見る限り、その後も晴矢と杏が進路のことでちゃんと話し合った様子はなかった。七月頭にそんな事態を迎えた俺達の日常はペースを緩めるどころか足早に流れて、気付けば明日から夏休みという場所までやって来ていた。受験生として臨む夏休みであるというのに俺達のクラスの連中は高校生活最後の夏休みという意識に偏っているらしく、見事に浮かれまくっていた。こいつらはきっと宿題すら貯め込むに違いない。一方で、晴矢は明らかに焦りと苛立ちが日頃の態度に滲み出していたし、杏もまた怯えと拒絶の態度を繰り返し、あの日から俺達の時間は止まってしまったようだった。またクラス公認カップルでもあった晴矢と杏の様子が妙だということにクラスの何人かは既に気付いていて、稀に俺に何とかしてやれという視線を寄越してくるのだ。俺だって、どうにか出来るならしてやりたいとは思っているさ。ただこれは当人達の問題だと思うからいくら幼馴染とはいえ迂闊な行動には出れない。ちなみにこれと同じ理由でクラスメイトに事情を説明することも出来ずに視線と事情の板挟みに合っている。
 クラスの様子が呑気とはいえ、高校三年生の夏休みが世間一般でどれほど大事と思われているか、いくら長閑な田舎町の高校といえども理解していない筈もなく、終業式のHRが終わっても進路ガイダンスと称した集会の所為で俺達三年の帰りは後輩たちとは違い、普段の授業がある時となんら変わりが無い時間にまで伸びてしまっていた。
 いつも通り、俺は晴矢と杏の三人で帰るのだろうと下駄箱で二人を待っていた。図書室に返却しなければならない本があったことを思い出して、晴矢と杏の二人に先に行くようにと言っていたのだが、何故か俺の方が先に下駄箱まで着いてしまっていた。不思議に思ったが、晴矢はクラスの人気者だから、明日から夏休みということもあって色んな人間に声を掛けられているのかもしれない。この三年間、長期休みの前は大体そんな感じで、晴矢は遊ぶ約束ばかりしていた。

「茂人…?早かったね」
「…杏だけか?晴矢は一緒じゃなかったのか?」
「……知らない。担任に呼ばれて行ったけど」

 名前を呼ぶ声に反応して顔を向ければ杏が一人でこちらに歩いて来ていて、晴矢の姿がなかった。尋ねた途端声の調子が刺々しくなった彼女の様子を見る限りでは、恐らく進路の話なのだろう。杏はそれ以上何も言わず、下駄箱から取り出した靴を苛立たしげに地面に落とした。こういう時、杏は決して晴矢を待たない。
 予想通り、靴を履き終えた杏は脇目も振らずに昇降口から出て行ってしまう。隠すことなく溜息を吐きながら、晴矢に「先に行ってる」とメールを送り、彼女の背中を追い掛ける。歩幅の差もあるが、怒っている割にはゆったりとしたペースで杏が歩いていた為、直ぐに追いつくことが出来た。
 久しぶりに杏と二人きりで歩く帰り道は会話もなく気まずいものだった。確か、初めてこの進路問題が浮上した際にも俺は晴矢との沈黙に気まずさを感じていたが、あの時同様、このまま黙っている訳にもいかなかった。

「なあ、杏。お前いい加減晴矢の話くらい聞いてやったらどうだ」
「……」
「このままお前が無視してても、アイツは東京に行くんだぞ?それでいいのか?」

 別に上から目線で叱りつけたり、物分かりのいい体を装って諭してやるつもりはなかった。いつまでも事態の進展を見せない二人をじれったく思う部分はあったけれど、俺は晴矢の味方になって杏を説得したかった訳ではない。晴矢との間に物理的な距離が開くことを寂しく思う杏の気持ちだって十分理解しているつもりだった。
 だけど、俺の言葉を聞いた途端、あの人前で泣くのが大嫌いだった杏が、ぼろぼろと大粒の涙を零して、泣いた。

「……杏?」
「…そうやって!私がっ、無視してもっ、東京に行っちゃうなら!私…、私は晴矢にはいらないじゃん!」
「そんなことは、」
「私の…、私のこれからにはっ、晴矢が!当たり前みたいにいたのにっ…晴矢は違うじゃん!」

 杏が嗚咽と共に言葉を叫ぶ度、彼女の涙が散ってコンクリートの地面にくっきりと染みを作る。最初は杏の言葉にそんなことはないと言い返そうとしていた俺は、ただ茫然と何年も見ていなかった杏の泣き顔を見つめることしか出来なかった。そして漸く理解する。杏は別に晴矢の夢を否定したくて彼の言葉を遮り続けた訳ではないと。晴矢の夢が東京にあるように、杏の夢がこの町にあったのだ。この町で過ごし続けた、晴矢と杏の二人の時間の中に。だから、晴矢に東京に行くと言われた時、杏は自分の夢がよりによって晴矢に砕かれたように感じたのだろう。それを認めるのが怖いから、寂しいから逃げ続けてしまった。けれど、晴矢は。晴矢だって、きっと――。

「晴矢は本当に、心の底からお前が好きだよ」

 情けないけれど、俺が杏に掛けてやれる慰めの言葉なんて、この程度でしかなかった。本当は、晴矢もきっとお前と離れるのは寂しいと思っていると言ってやりたかった。だけど、晴矢はその寂しさを押し殺して未来を選んだのだ。軽々しく彼の気持ちを俺なんかが語るべきではない。

「杏も、本当に晴矢が好きだって知ってる」
――そんなお前達の一番近くにいて、思うんだ。
「俺はそんなお前たちが、本当に好きだよ」

 だから、晴矢と杏には幸せになって欲しいし、いてほしい。こんなお節介な願いを叶えられるのは、俺じゃなくて当事者であるこの二人だけなのに。それでも俺は、馬鹿みたいなこの願いを諦めることがどうしても出来ない。子どもみたいに泣きじゃくっている杏に、どうにかして笑って欲しいと思うのに、何故だか俺まで泣きたくなってきて、いつも何の感慨もなく歩き続けた通学路に、二人して立ち尽くしていた。
 結局この日、晴矢が俺達に追い付いてくることはなかった。