「叶えたい夢があるんだ」

 いつだったか、きっともう小学生の頃だろう。晴矢が、帰り道で独り言のように呟いた言葉。あの時、夢なんて大きければ良い程度に空想から離れられなかった俺と杏は、ただそうなのかと返すことしかしなかった。でももしかしたら、本当はいつになく真剣な晴矢に瞳に圧されてそう返すしか出来なかったのかもしれない。
 結局杏と一緒に授業をサボってしまった。別に一時間くらいなんの問題もないが、晴矢のことが気に掛かる。俺と杏が二人きりになった所で一々目くじらを立てるような奴ではない。ただ晴矢も杏の性格はよく知っているから、晴矢本人からいきなり告げられた言葉に混乱して泣いたりしていないか、心配はしているだろう。メールでもしようかとズボンのポケットに手を伸ばしたが、生憎携帯は休み時間だったこともあって机の上に置いて来てしまったらしい。どうか、教師に没収されていませんように。
 授業終了の鐘が鳴ると同時に、一つ隣の校舎は一気ににぎやかになる。昼休みを迎えたのだ。俺は杏をその場に残して、昼飯を取って来るからと一人で教室に戻った。既にざわついている教室に入ると、晴矢が昼飯を食べるでもなく自分の席に座っていた。俺は晴矢の元まで行くと、杏の居場所を告げて、そこで一緒に昼飯を食べないかと声を掛けた。晴矢はただ「おう」と返すだけで、俺の顔を殆ど見ようとはせずに立ち上がる。
 晴矢の態度に、若干の気まずさを感じる。お互い詳しく聞かずとも杏を介してある程度の事情を知っているのだろうという探り合いの状態に陥ってしまっている。滅多に訪れることのない、しかし何の問題もなかった筈の沈黙が少し痛くて、俺は必死に言葉を探す。晴矢との会話に勇気が必要になるなんて初めてのことだ。

「晴矢、東京の大学に行くのか」
「杏が言ってた?」
「ああ。驚いてたし…大分ショックだったみたいだな」
「ん、そうみたいだな」

 心のどこかで期待していた否定の言葉は、残念だが返って来なかった。尤も、否定されるような内容ならば端から杏の耳に晴矢の口から入ったりはしないのだから、当然と言えば当然だ。晴矢はただ、前を見て廊下を歩く

「東京の大学でさ、うちでサッカーしないかって声掛けてくれた所があってさ、俺も二、三日前に担任から知らされたばっかなんだけど。それ聞いてさ、俺馬鹿だけど俺なりに真剣に考えたんだ。正直、大学とかその辺にある所に行ければいいと思ってたし。でもさ、俺すんげえ嬉しかったんだよ。俺のサッカーを認めてくれる人がいるってことが。勿論、杏や茂人と一緒に馬鹿やってる時間が無くなるのだって考えたくないし嫌だけど…、俺ガキの頃からずっと夢だったんだよ。サッカーで生きていくことがさ」
「……そうだな、晴矢は昔から…サッカー選手になるって言ってたよな」

 その為に、沢山の時間を費やして来たんだもんな。いつもの明るいおちゃらけた晴矢からは想像も出来ない真剣な声音で紡がれた言葉は、難しい単語なんて一つも使われていないのに俺には理解できないような不思議な響きを持っていた。そしてそれは、俺には到底揺るがしようのない強さを持って俺の耳朶に沁み込んだ。
 晴矢は自分の未来に向かう道を選んだ。それは少しも悪いことではない。それなのにどうしてこんなに泣きたくなるのだろうか。どうしてもその道じゃなきゃお前の夢は叶えられないのか、なんて、まるで晴矢を引き留めたがっているみたいじゃないか。だけど、俺はそれをしてはいけないのだ。晴矢と正面からぶつかって、彼の想いを受け止めるべきなのは俺じゃない。杏なのだから。

「…杏とも、ちゃんと話せよ。あの様子じゃ、納得してないんだろ」
「わかってる」

 あの子は案外寂しがり屋なんだから、というのも、晴矢には分かり切っていることだろうから言わなかった。
 これから自分の決めた道を、恐らく、決して容易くはないであろう未来を選んだ幼馴染を、親友を。俺はただ見送ろう。その背中が迷って、振り返って歩みを止めたりしないように、俺はその背を押してやろう。今の晴矢には、そんなものは必要ないのかもしれないけれど。それが今まで晴矢の前でお兄ちゃんぶって来た俺からのせめてもの贈り物だ。

「……ありがとな、茂人」

 真剣な表情から一転、照れくさそうな顔をしながら、やはり俺の方を見ないようにしてぶっきらぼうに呟く晴矢に、俺は笑いながら「どういたしまして」と応えた。だけどその言葉は、この夏が過ぎ去って、秋を跨ぎ冬を通り越した先に訪れる春にまでどうか取って置いて欲しい。そんな思いを込めて、俺は晴矢の頭を軽く小突いた。