制服の左胸に飾られた花の座りが悪いとしきりに気にする杏の正面に立って、別に曲がっていないと教えてやる。このやり取りが、朝からもう4回目のことだった。サッカー部の後輩たちに半ば連れ去られる形で教室を出て行った晴矢を待ちながら、式典中から泣き出した杏は花粉症のクラスメイトが持ってきていたボックスティッシュを奪い取って鼻をかんでいる。
 卒業式だというのに、校舎内はしんみりという情感よりも文化祭のような賑わいで妙な盛り上がりを見せていた。単に俺の周囲だけなのかもしれない。晴矢や風介の活躍もあって大活躍だったサッカー部の両エースが卒業とあれば後輩たちは景気よく送り出そうとする者もいれば名残惜しんで泣き出す者もいて、彼等が固まる一団を見ればにぎにぎしくて会話なんて聞き取れやしない。俺と杏は帰宅部だったので特に後輩に呼び出されることはなかったが、同級生なんだか後輩なんだかわからない女子生徒にネクタイをせがまれたり一緒に写真に写ってくれないかと頼まれたり告白されたりということは数件。だから大人しく、教室に避難して出歩かないでいる。杏も後輩男子に呼びだされたようだが、その場で言えないようなことなら聞く気はないとさっさと戻って来てしまったらしい。相変わらず晴矢一直線で清々しいことだ。
 先程クララが良かったら一緒に帰りましょうと伝言だけ残しに来た。彼女も、風介を待っているだけでこの校舎で過ごした三年間にさして浸る感傷は持ち合わせていないようだ。過ごした相手が重要で、その相手とこれから先も道を共にする決意でいるのだから当然といえば当然だ。

「そうだ杏、きちんと祝ってなかったけど、大学合格おめでとう」
「え?メールしてくれたじゃん」
「まあそうだけど、面と向かっては言ってなかったらさ」
「ふうん、そういうことならまあ…ありがと。茂人ったら真面目よね」
「そりゃあ杏だからさ。晴矢にだって、きちんと推薦が決まった時は直接おめでとうって言ったからさ」

 杏は春から東京に出て晴矢と同じ大学に通う。クララも同じ。二人揃って合格したとメールを貰った時はどうしてか俺が一番安心したんじゃないかというくらい緊張が解けて力が入らなくなった。それからメールでおめでとうと返信したものの、直接祝ってはやるにはタイミングが合わなくてずるずると言えずにいた言葉を漸く伝えた。杏も今更と肩を竦めているが、悪い気はしていないのだろう。

「茂人は4月から先生を目指す訳だ」
「一応な。途中で他にやりたいことが出来たらあっさり方向転換するかもしれないけど」
「いいんじゃない。浮気な茂人とか想像できないけど」
「嫌な言い方だな」

 俺も夏休み中に変更した大学に杏たちよりも一足早く合格していて、近頃は割と気楽な気持ちで過ごしていた。晴矢と杏の問題も、彼女が晴矢について行くと決意した日を境にきちんと解決の兆しを得て、それ以降猛勉強に励んだ杏に放っておかれた晴矢が愚痴を零すほどには平和な時間だった。
 涼野とクララは何故か俺の肩や背中を労わるんだか貶しているんだかわからない力加減で叩いてきたりした。言いたいことはそれなりにあるようで、だが部外者として節度を持って傍観を選んでくれた二人も何やかんやで面倒を掛けてしまったのだろう。一度だけ、お礼を籠めて自販機でジュースを奢っておいた。するとまた、そうやって尻拭いに慣れてしまうのは良くないとお叱りを受けた。晴矢と杏限定なんだと強調して、渋々納得して貰ったことも懐かしい。あれはまだ、冬が来る前のことだった。既に冬は終わり、春が来て俺たちは高校を卒業する。一週間後には、晴矢と杏はこの街を出て行く。

「それにしても晴矢は遅いわね」
「人気者だからな」
「ふん、どうだか。それより茂人、明日から一週間は三人で遊びまくるわよ!覚悟しておきなさい!」
「え、良いけど、お前たちの準備は大丈夫なのか」
「平気平気、―――私はね」
「はは、じゃあ晴矢の方に気を付けておくか」
「そうしてやって」

 引っ越しの準備等決して暇ではないだろうに、最後の時間を惜しむように傍にいてくれる晴矢と杏の厚意はありがたい。二人が東京に行ってしまったら、案外二人の背中を押すことに必死だった俺が一番寂しがったりするのだろうか。その結果を知るのは、そう遠い日のことじゃない。