――格好つけすぎたかな。
 そんな言葉を、晴矢に杏のことが好きなのかと問われたあの日から繰り返している。嘘で塗り固めた言葉を口にしたつもりはない。未だに自覚しきれていない、周囲から見ていれば浮き彫りになっているらしい杏への好意は、恋と名付けるならばそれは遠い過去の話であるべきだ。でなければ、約2年間もどうして穏やかな気持ちで恋人同士の二人と共に生きて来られたというのだろう。
 涼野やクララにも、何度か物言いたげな視線で刺された。その度に、そんな真剣に悩んでくれるなよという意味を込めて笑い返しておいた。きっと彼等を納得させるには足りなくて、進展もなさすぎる俺たちの日常は受験生という肩書が身に迫っても怠惰以外の何物でもなかった。
 晴矢と杏は何度か喧嘩をして、仲直りもして、その繰り返し。晴矢が東京に出て行くことは覆せなくて、杏はそのことに関しては諦めている節もある。だから俺としては、杏が進路をどうするのかが気掛かりで、クララのようにと言っては悪いが晴矢を追い駆ける覚悟が決まるかどうかの問題だと思い始めている。けれどあの晴矢が素直に一緒に来てくれと、プロポーズするならばまだしも杏の進路を唆すような発言をするはずもなく、決断をひとり抱える杏の威勢は日に日に弱まっていくように見えた。

「杏、お前進路どうするんだ」
「…親みたいな聞き方しないでくれる?」
「…じゃあ何て聞けばいいんだ?」
「知らない」
「お前なあ…」

 杏に関しての情報を余所から仕入れるのも妙な気分なものだから、とうとう直接尋ねてみることにした。夏休み頃ならば近場で考えていると曖昧なビジョンを語っていても周囲は深く追及してこないだろうが、流石に夏休みが明ければそうも言っていられないだろう。
 誤魔化されるとは思っていなかったが、杏の口から出た志望校に、俺は思わず「は?」と間抜けな声を上げて固まってしまった。だってそうだろう、まさか杏が俺と同じ大学を志望するなんて思わなかったから。系統が違うから、別に同じ大学を受けるということに競争意識は芽生えない。そもそも俺と杏の間にそういう勝負心的なものが働いたことはなかった。
 しかし問題はそこではなく、何故杏がその大学を志望するのか俺にはさっぱり理解できなかった。促したことはなかったけれど、杏の問題が晴矢と東京に出るか出ないかに絞られているかのように勝手に思いこんでいたのはどうやら誤算だったらしい。

「なあ、杏は東京に行かないのか」
「……何で?」
「晴矢が行くから」
「私の人生、晴矢基準で回ってないわよ」
「でもそうありたかったんだろ?」
「知らない。勝手に遠くに行っちゃう晴矢より、どこにも行かない茂人が残ってる地元の方が絶対楽しいよ」

 それは“たのしい”じゃなくて“らく”なだけだと叱りつけてやりたかった。晴矢の気持ちも考えてやれよと何度も説いた言葉はきっと何の効果も持っていなかった。そんな理由で傍にいて欲しくないと杏を突き放してやるには、今の彼女は弱々し過ぎた。けれどこんな、弱みに付け込むような形で一人ぼっちを免れても俺はきっと楽しくないんだろう。だって俺は、いつだって晴矢と杏が大好きなんだから。それはきっと誰もが離れ離れになる可能性に満ちた未来を前にしたって揺らぐことはない俺のたったひとつの誇りだった。

「……杏」
「なに、晴矢の話ならもういいよ」
「俺は杏が好きだったよ」
「――え?」
「だから頼む。この先お前に起こるお前の意に添わないこと全部を俺のせいにして恨んでくれても構わないから、今を悔やまないように晴矢を追い駆けてくれないか」
「…何で、そうなるの…?」

 杏は今にも泣き出しそうで、俺も告げるつもりもなかった気持ちを吐き出した所為で上手く舌が回らない。だけど、俺の言葉を嘘と笑い飛ばさない杏は本当に優しくて、少なくとも俺を嫌ってなんかいなくて、それだけで、俺は十分だった。

「杏はきっと、晴矢と一緒にいるときが一番幸せなんだ」
「そんなの、わかんないじゃん、私の幸せなんだよ」
「うん、だけどさ、俺たち何にもわかってなかったんだよ。自分のことも、お互いのことも」
「――茂人?」
「何処に行くにしたって、動かなきゃ。どんな選択をしたとしても、いつまでも同じ場所にはいられない」

 唇を噛み締める杏が何に耐えているのか、俺には生憎親身に悩んでやることはできなかった。俺は晴矢を見送ることを決めている。けれどそれはあの日と同じ、先に杏への想いを打ち明けられたことに諦めを覚えたわけではなく、いつまでも掛け替えのない友人として晴矢を認めているから、新天地へ赴いても頑張れよと気安く言葉を掛けてやれるだけ。でも杏は、恋愛感情で繋がってしまった晴矢と杏は、そんな気安さだけでは遠すぎる距離を挟むことが難しいのだろう。それならば、追い駆けるべきなのだ。諦めて、大切な絆を取り零さないで欲しい。
 気楽さを選んで俺の元にやってきても、きっと何も残ってはいないだろうから。自分の足で立たなきゃ、他人なんて支えてやれるはずがないのだ。

「私は――晴矢が好きだよ」
「うん」
「ずっと、晴矢が好きで、これからも好きでいたいよ」
「うん」
「追い駆けてもいいのかな」
「うん」
「邪魔だって言われないかなあ?」
「あはは、馬鹿だなあ杏は、晴矢がそんなこと言う訳ないだろ?」

 とうとう泣き出した杏の頭を撫でてやる。晴矢は力加減が下手くそで、杏を泣かすばかりが得意だったから、これは昔から俺の特技だ。けれど知っていたのかもしれない。杏を慰める俺の背後で、本当は一等彼女を案じていた晴矢の視線を。
 ――本当に晴矢は、世界で一番お前のことを想ってるよ。
 伝えてやりたかった言葉は、生憎熱くなった目頭と、ぼやけた視界に驚いていて声にならなかった。二人して泣きながら笑って、これ以上は言葉にならなくて、だけどそれで構わなかった。他に伝えるべきことなんて見つからない。俺は晴矢と杏が大好きで、晴矢と杏がお互いを想い合っていること。それだけで、俺たちは何も間違えていないんだと胸を張れる。その単純さを、今は何よりも愛しいと思った。