氷のような視線が責め立てる。見慣れた優しい笑顔がひび割れる。気の強い表情と声が遠ざかる。晴矢の世界はぐらぐらと崩壊寸前で過去を巡る。
 気付いていたでしょうとクララは責めた。本人はただ事実を説いただけかもしれないが、幼馴染三人組のことを他者に言及されて無視できない言葉を放られたことは初めてで、晴矢はそれを攻撃以外のものとみなせなかった。しかし怒りよりも衝撃が襲い、背筋が凍るような恐怖がいつまでも去ってはくれない。それはつまり、無自覚な振りをして、心のどこかでクララの言葉を肯定してしまう本音を晴矢が抱いていたということなのだろう。
 けれど、言い訳を許して貰えるならば。少なくとも晴矢は、彼が杏をひとりの女の子として好いているという自覚を抱いた瞬間から、茂人が杏をどう思っているのかを疑問視し、問題視したことはなかった。それが傲慢なのだと咎められたら、そんな余裕はなかったのだと釈明しよう。あの頃、晴矢にとって幼馴染三人の輪というものは絶対だった。サッカーは楽しいし、チームメイトとの関係を疎かにしていたわけではない。けれど茂人と杏を内側と定めるのならばその他は全て外野でしかなかった。だから、真っ先に茂人に杏が好きだと打ち明けた。もしかしたら、綺麗な輪を壊そうとする、そんな大罪を犯そうとしているのかもしれないから。そうであるならば、杏よりも茂人の方がわかりやすく自分を諭してくれるだろうと思っていたから。だが茂人は晴矢の告白に驚いた様子も見せず、二つ返事で協力してくれるとその立場を表明した。だから晴矢の意識はそこからずっと杏に向かってしまえば良かった。茂人が、晴矢に対してどんなスタンスで接して来たかを振り返ることもせず。晴矢と杏の性格も手伝って、茂人はいつだって自分たちから一歩引いた場所から全体像を見渡すことを義務のようにしていたことを見落として、晴矢は茂人を引き込んだ。けれど、あの時もう少しだけ茂人の目を覗き込んでいたら、何か違っていたのだろうか。どれだけ悔やんでも時間は戻らない。杏への気持ちも揺るがない。何より、茂人自身が彼の気持ちに無頓着であったことは、決して晴矢の落ち度ではないのだから仕方がない。仮に、真っ先に茂人に打ち明けたその行為の根底に、彼だけは敵にしたくないからという打算が潜んでいたとしてもそれを悪だと罵る資格は誰にもありはしないだろう。唯一それを許されている茂人は、きっと晴矢を責めたりはしない。それがわかりきっているから、晴矢は今更苦しんでいる。

「――晴矢?」
「…茂人」
「何やってるんだ、お前まだ英語のスピーチ原文書いてないだろ。提出近いんだから――」
「なあ、お前杏のこと好きだったのか」

 晴矢を探しまわっていたのであろう、僅かに息を乱しながら近付いて来た茂人の言葉を遮って晴矢はその爆弾を投下した。相変わらず晴矢たち以外に人気のない図書室で、声を潜める気遣いは必要なかった。
 晴矢の為を思って行動して、迎えに来たというのに寄越されたのは思いも寄らない、まるで糾弾するような響きを持った問いだった。茂人は、先日の風介の苛立たしげな姿を晴矢に重ね、足を一歩引いて、長年付き合ってきた幼馴染をしげしげと観察した。何故そんなことを言うのか。世界が突然彼等の世界に罅を入れて叩き壊そうとしているかのような被害妄想。

「…涼野に何か言われたのか」
「幼馴染の方」
「クララか。俺が、杏を好きだって?」
「そうなのか」
「…………」
「そうならさ、お前、俺のこと殴ったって良いんだぜ」
「どうして」
「だって、嫌いになるだろ。俺のこと、何も知らない顔で、杏のこと好きとか言って、お前に――」
「あの時、俺が晴矢を応援すると言ったのは何もお前に先手を取られたからとかそんな諦めで言ったんじゃない。本当に応援してやろうと思ったんだ。そりゃあ後から冷静に考えれば二人が付き合えば俺の居場所はもうないかもなって寂しくも思ったさ。でもお前を嫌いだなんて思ったことは一度もない。勿論、杏のことも」
「――――、」
「でなきゃさ、こんな手間のかかる二人にいつまでも振り回されてらんないよ」
「…んだよ、それ」
「杏のことが好きかって言われるとさ、正直わからなくて、でももしかしたらそうなのかもなって、最近では思うんだ。だけど、そうだったんだって昔のこととして捉えるよ。だから晴矢もあんまり気にしないでくれ」

 こうして茂人はいつだって、晴矢の都合の良い答えをくれる。声を荒げることなく、穏やかな微笑を浮かべて言葉をくれる。難しい言葉を使わずに、時々晴矢の至らなさを笑って。だけど今回ばかりは、全てを彼に任せて甘やかされてはいけないのだ。晴矢はそう思う。とうに定めたこの先の目的地に、茂人はいない。だけど失くしたくない存在だった。だからきちんと詳らかにしておかなければならないことが、自分たちにはきっとあるのだろう。

「でもお前が杏のこと好きなら、俺はお前を応援する」
「――は?」
「俺も杏のこと好きだから、別れてなんかやらないけど、だから、つまり何だ、その…」
「受けて立つ、的なことか?」
「そう、それ!」
「お前…嫌味だなあ」
「何でだよ!」
「晴矢さっきから俺とお前の立場でしか考えてないだろ。杏はお前を好き、だから現在進行形でお前が東京に行くことに悲観的になってるってことわかってるのか?いい加減本当に話付けないと、益々ややこしくなるんだぞ」
「うっ…」
「気持ちだけ貰っとくよ。――でもまあ、これ以上事態を引き延ばしてあまりに杏を泣かせるようなら俺も考えを改めるかもしれないけどな?」
「わかったよ!」

 格好つけやがってという悪態は、茂人にはあまり通じない。その引いた態度を身に着けさせたのは本人の意思と、それを必要とさせた自分たちの稚拙さ。けれどお互いが感じる気兼ねのなさも偽りなどではないのだ。だからこんな風に恐ろしいだけの本音を晒し合うことにだって飛び込まなければならない。
 教室に戻ろうと晴矢の背を叩いた茂人に、晴矢はわかっていると茂人の足を軽く蹴っ飛ばした。二人して苦笑を浮かべながら既に残暑と呼ばれる9月の太陽光を浴びて廊下を歩く。
 晴矢の心は少しだけ、軽くなっていた。