「最近茂人が元気ない…気がする」

 図書室で晴矢が呟いた一言に、彼の正面の椅子に座って読書に勤しんでいたクララはふっと顔を上げてそれから不愉快だと眉を顰めて涼しげなその相貌を崩した。夏休みの予備校を通して茂人や杏とは親交を深めたものの、晴矢とはただの顔見知りの域を未だ出ていない。そんな人間が、空席ばかりの図書室でわざわざ自分の正面を陣取ったことその時点でクララの機嫌は下降路線を辿り始めていたというのに。
 晴矢はきっと他人の機嫌の機微を伺うことの出来ない人間だとクララは思っている。そういう自分を疲労させることは茂人に押し付けてきたに違いない。うっかり他人の領域に踏み込み過ぎたときは直ぐに彼が連れ戻してくれたのだろう。ガキ大将みたいな存在は、クララの幼馴染である風介とは相容れない部分が多くて元来彼よりの立場を取るクララは晴矢を好意的に見たことがない。敵対心を抱くきっかけもない為毒を吐いたこともないけれど、他の三人の誰よりも晴矢に向ける目線が厳しいということを彼女自身自覚していて、辞めるつもりは今の所毛頭ない。

「――杏に聞いたら良いんじゃない。そもそも貴方たち幼馴染の間の手に負えない問題が私の手に負えるわけないわ」

 それでも、こみ上げる苛立ちを必死に抑え込んで晴矢を追い払うための言葉を吐いた。そしてそれが模範的な正解例だとクララは思う。
 晴矢の言う茂人の元気がないように映る原因を、きっとクララは知っている。新学期早々苛立ちを隠すことなく職員室から教室に戻ってきた風介は彼女に茂人に放った言葉の全てを教えてくれたから。何故そんな会話の流れになったのかまでは聞きそびれたが、風介の主張は大方クララが茂人たち三人の関係について客観的に考えた際に行き当たる意見そのものだったから言い過ぎだとか、謝るべきだとかの進言はしなかった。
 何より、これまで散々茂人の世話になっておきながら彼の異変を察知して戸惑うのは初めてだと言わんばかりの晴矢の対応の遅さが腹立たしい。高校三年にもなって恥ずかしくないのかしらと首を傾げる。それが晴矢と杏の二人の恋人同士という関係の間で行われる寄り掛かりならクララも目を瞑るしそもそも気にも留めないだろう。だが常日頃晴矢と杏、恋人に収まった二人の幼馴染として当人等以上に心を砕いている茂人のことが、当事者ではないクララたちからすると幾分不憫に思えてしまうのは仕方ないことだった。
 だから、と繋げるのは強引なのかもしれない。けれどたった一度の夏休みを通して、近付いてしまった、見えてしまった彼等の円満さと歪さを、クララは他人事して流しておくつもりだった。だが踏み込んで来たのが、茂人でも杏でもなかったことが、クララの冷静さを若干削いでいたのかもしれない。

「貴方は気付いていたんじゃないの?」

 纏う空気が、より一層刺々しくなる。手にしていた本を閉じて、臨戦態勢を整える。尤も、晴矢の言い分などどうでもいい。這い上がって来た苛立ちと、当事者ではないが故の客観的な真実を突きつけてやろうと思っているだけ。それが、件の幼馴染三人にとって何ら有益な事実でなかったとしても。彼等はいい加減気が付いて、諦めて、這い上がるべきなのだ。
 永遠など、この世のどこにも存在していないということを。無邪気な子どもの時間は、とうに終わりを迎えようとしているということを。

「傍から見てれば簡単にわかることよ。茂人君は、杏のことが好きだった。貴方はそれを知っていたでしょう?」

 最後の言葉は、軽蔑ではなく同情が滲んだ。晴矢が能動的な人間であることは知っている。だからなのか、完全に受け身に回るしかなくなった事態に滅法弱いということは、今この瞬間に知った。目を剥いて、呼吸すら忘れて、晴矢はクララの言葉に殴られて呆然と停止していた。
 ――本当、どうしようもないのね。貴方たち。
 ダメ押しになるようで、クララは唇を引き結ぶと読んでいた本を棚に戻す為に席を立った。無論これ以上晴矢に付き合う気はない。そのまま図書室を出て行くつもりだった。呼び止める声はない。クララは一度も晴矢を振り返ることなく図書室を後にした。
 この先の彼等のことなど、考えたくもなかったが、そういうわけにもいかないのだろうなと溜息を吐きながら、クララは彼女の幼馴染でもあり恋人でもある風介の元に向かうことにした。