新学期を迎えても結局晴矢の宿題が終わることはなかった。高校三年間、一度たりとも宿題を終えた状態で夏休みを終えたことがなかったことを何故か俺の方が心残りに感じてしまうのは何故だろう。おまけに新学期早々日直となっていた晴矢は担任に宿題を集めて職員室まで運ぶよう雑用を言い渡されて気が滅入っている。担任の科目分だけとはいえ、その科目の宿題を現在進行形で必死に進めていた晴矢としては提出が間に合わないという絶望に打ちひしがれている。それで作業の手が止まっては意味がないだろうと俺は晴矢の仕事を肩代わりしてクラス全員分マイナス晴矢のノートを抱えて職員室に向かっている。ついでに担任に晴矢の宿題提出を待ってもらえないかどうか探りを入れないといけない。
 どう言葉を使うか、そんなことを考えていたら前方から人が来る気配を拾い損ねてぎりぎりで避ける形となってしまい、持っていたノートの一番上の一冊を落としてしまった。ぶつかりそうになった相手は友人と喋っていてこちらに意識を向けることもなくさっさと立ち去ってしまっている。別に気分を害したとかそういうことはないけれど、こういうとき、相手を避ける側に回ると気分的な問題で損だなとひとり溜息を吐いた。塞がった両手で、一度ノートを置かなければ落とした分を拾えないなと膝を曲げかけた瞬間、目の前にすっと今拾おうとしていたものが差し出されていた物だから思わず停止してしまった。
 目の前にいたのは隣のクラスの涼野で久しぶりに見る制服姿だ。眠そうな無表情を湛えて、半袖のシャツの袖を更に捲るという個性的な着こなしを見るのも三年目だ。

「――涼野?」
「新学期早々雑用かい?」
「ああ、いや、これは晴矢の仕事なんだけどアイツまだ宿題終わってなくてさ、今教室でやってるからその代わり」
「………」
「涼野?」
「偶に思うんだけど、君が晴矢の前に出ないように出ないようにってしてるのは無自覚なのか?」
「は?」
「晴矢が劣ってるとは思ってないけど、それ以上に君が晴矢に劣っているとは思えないな」
「何の話だ?」
「とことん無自覚か。てっきり、自覚があってだからこそ引いたのかと思ってたんだけどね」
「涼野、悪いもうちょっとわかりやすく――」
「私は君が蓮池を好きなのだとばかり思っていたよ」
「――は?」
「そらとぼけるのも結構だ。私には関係ないからね」

 言いたいことを言いきって、それでもすっきりしたというよりは苛立ちが増したのか自分の髪を掴むように梳いて涼野は俺の横を通り抜けて行った。俺はノートを拾ってくれた礼を言うことも出来ないまま彼が歩き去った方向を振り返ることも出来ない。きっちりとそろって積まれたノートの一番上の一冊だけが斜めに乱れて気持ちが悪い。だけどそんな違和感は些細なことだ。本当に気持ち悪いのは、涼野の言葉にぎくりと波打った俺の心臓とぐるぐるとかき回された腹の底。無自覚以前の話だと断ち切りたい。存在しない事象を自覚する必要などないだろうと。
 ――だって、俺が杏を好きなんてそんなはずがないんだ。
 晴矢を立てようと意識して生きてきたわけじゃない。ただ人を引っ張る力のある人間だとは認めていたから支えてやるのが一番近くにいる人間の役目だとは思っている。結果晴矢ひとりを助けてはバランスが悪いから杏だって同じように手を引いて結果面倒見が良いお兄さんポジションに収まったことに不満なんてない。それだけは絶対に嘘じゃない。
 だけど。
 何で今更、涼野に俺が杏のことを好きだなんて言われなきゃならないんだろう。晴矢と杏が同じ気持ちを持って惹かれあっていたことなんて明らかで。もしこれまでの俺を見て杏を思っているなんて突飛な発想に至れるならあの二人の気持ちなんて涼野には手に取るよりも簡単に理解できることだろう。悪意なく突かれたもしもの扉が開きかけて、俺は焦る。だって結局晴矢と杏は夏休み中まともに話し合うことも出来なかったらしいから。まだまだあの二人の心配は尽きていないのに自分の余計な混乱で三人の輪を乱したくはない。そう思うのに、這い出る何かを留めることが出来ない。それは俺の両手が塞がっているからか、それとも端から手遅れだったからかこの時の俺はただこの先訪れるであろう“何か”に怯えながら身構えるしか出来なかった。