「あら、あなた今日来たの」

 晴矢と涼野が帰ってきた翌日。予備校に登校した俺の顔を見たクララが発した第一声がこれである。俺は別に体調不良でもないし、これまでこの夏期講習をサボったこともないのに何故。そんな疑問が顔に浮かんでいたのか、クララは「ごめんなさいね」と前置きしてから理由を教えてくれた。

「てっきり早速南雲君とどこかに遊びに行くものと思っていたのよ」
「明日遊ぶんだ。流石に今日は昼過ぎまで寝てるんじゃないかな」

 晴矢に聞いた所によると、合宿中は毎朝六時起きだったらしい。学校がある時でも七時過ぎまで寝ていた晴矢にはさぞ過酷なスケジュールだったに違いない。涼野とも同室だったらしいが生憎彼は面倒見の良いタイプではない。
 一方、クララは昨日帰って来てからずっと眠りこけていたが為にきっちりと早くに起床した涼野に遊びに誘われたらしく彼女の方が色々と疲れてしまったらしい。聞いていて毎度思うのだが、涼野は少々クララのことが好き過ぎやしないか。

「そうだ、クララと涼野は明日の夏祭は行くのか?」
「どうかしら。去年は家から花火を見ただけね」

 二人とも人混みは嫌いなの、といつもの様に文庫本を読み始めるクララに、俺は確かにそんな感じする、と思いながら授業の準備を整える。暫くして、クララが何かを思い出したかのように本を閉じると同時に此方を向いた。

「宿題でちょっとわからない所があったの。聞いても良い?」
「ん、良いよ。何所?」

 クララは問題集を取り出すと、宿題だった範囲の最後の問いを指差した。クララはどの教科でも基礎をしっかり固めてコツコツ学習するタイプなので、結構応用問題そつなくこなすのだが、数学の文章題だけは嫌いという感情が先行するためか苦手らしい。今、わからないと指差しているのもその数学の文章題である。

「えーっと、この問いは…ほら、二個前の問題と同じ公式使ってaの値を出した後に…」
「あら、そっちの公式だったの」

 どうやらクララは使用する公式を間違えていたらしい。それさえ分かれば後は大丈夫の様で、彼女はすらすらと問題を解いていく。

「答えって3?」

 正解、と頷けばクララはありがとうと微笑む。どういたしまして、と言う程のことはしていないのだけれど、だからと微笑みにだけ応えようと笑い返しておいた。晴矢や杏の面倒を見ることに慣れ切っている所為か、ささやか過ぎることに礼が無いのはある種当然になっている。

「茂人君って教えるの上手よね」
「そう?普通じゃないかな」
「杏たちとのやりとりを見てるとなんだか幼稚園の先生を思い出すし」
「……幼稚園って、」
「面倒見が良いって言いたかったの」

 成程、と頷く俺の隣でクララはもう一度礼を述べてまた文庫本を読み始めてしまった。
 会話を放り出されてしまった俺は今クララに言われた「面倒見が良い」というフレーズを脳内で何回も繰り返す。昔から、晴矢と杏と俺の三人でいる時には頻繁に周囲からこの言葉を俺は受け取っていた気がする。

「晴矢と杏が一緒の時だけだと思ってた」
「…?何が?」
「今の、面倒見が良いって話し」
「あらそう?あの二人を差し引いて、貴方単体で見ても十分面倒見の良いお兄さんって印象あるわよ」
「そうかな」
「ええ、先生にでもなれば」

 読書中のクララが俺の独り言に反応してくれたことにも驚いたが、いきなり先生なんて職業を薦められたことに単なる軽口だとは理解しつつも驚いた。それでも、内心それも良いかな、なんて安直に捕えてしまう自分がいて。ちょっと褒められたくらいで自分が此処まで調子に乗る人間だったとは知らなかった。自覚して、段々と羞恥を覚えて隣りのクララを盗み見たけれど、俺を調子に乗らせた張本人である彼女はもう視線を文庫本に固定していて授業が始まるまで一度もその顔を上げてはくれなかった。挙句その日一日はこんな会話無かったかのようにあっけなく終わってしまうのだから後味が悪い。
 結局俺も翌日の晴矢の宿題のことに意識を直ぐに奪われたから、クララにこれ以上の会話を振ろうとは思わなかったけれど。そしてその日一日俺の意識は翌日のことに囚われたままで、あの問題はどう説明してやったらわかりやすいだろうかなんて考え込んでしまって、そのおかげかあっさりと翌日を迎え俺は晴矢の家へと向かった。

「おじゃまします」

 なんて余所の家に上がり込む時には当然言うべき台詞をいつぶりか唱えながら、しかしもはや勝手知ったる場所でもあるので靴を脱いで勝手に上がり込み階段を上って二階の一番奥にある晴矢の部屋に向かう。晴矢は杏か俺がこの家を訪ねても玄関まで迎えに来ない。なのでこちらも晴矢の母親にインターフォン越しに挨拶してしまえば後は勝手に彼の部屋まで行くのが習慣だった。
 部屋のドアを開ければ昼前だというのに既に部屋は冷房でがんがんに冷やされていた。炎天下を歩いて来た今はその涼しさが嬉しいが、どうせ直ぐに寒さを覚えることになるのだろう。なので、後々の為に勝手に冷房のリモコンの位置を目で確認しておく。晴矢が直接手に持っていないのならやりようがある。さて、肝心の晴矢はと言えば少しは自力で宿題をやろうとしたのか、机の上に宿題全てが積まれていて、その内数冊のワークは広げられていた。だがシャープペンと消しゴムは寂しく転がっており、直ぐに力尽きたであろうことが伺える。ベッドの上で屍の如く伏せているのがその証拠。つまり、全く捗っていないということが一目瞭然だった。

「晴矢、来たぞ」
「……もう無理だろ」
「無理じゃない。ほら、座れよ」

 学習机とは別の、ローテーブルの前に腰を下ろして、晴矢にも座るよう促す。晴矢は「あー」だの「うー」だの唸りながらも起き上がって俺と向かい合うように床に座った。どうでもいいが、晴矢の部屋には何故かクッションが無い。だから俺は勿論、この部屋の主である晴矢すら長時間床に座っているのは辛いという可笑しな部屋なのだ。だって尻が痛くなるから仕方ない。
 取り敢えず、読書感想文だとか、英語のスピーチ作成だとかかなり時間を食うものは後回しにする。やはりワークやプリント類を先に終わらせようと考えて宿題を整理する。しかし手を着けていないくせに何故晴矢のプリントは端がよれたりして汚いのだろうか。中学生の頃、流石に扱いが酷過ぎるとクリアファイルを渡したことがあるが物の数日で見事に壊した。よって今のところそれ以上の有効な手段が思いつかないので放置している。

「ひとまずこれとこのプリント全部と、このワーク終わらせれば後は提出期限までに何とか出来るだろう」
「あ?全部じゃねえの?」
「英語のは授業でスピーチするまでに仕上げれば大丈夫だし、後は提出日が九月の連休明けって大分後の奴だから」
「んだよ、余裕じゃん!」
「そういう台詞は終わらせてから言ってくれ」

 想像よりも現在済ませるべき宿題の量が少なくなったからなのか。勢いよく問題に取り組む晴矢だったが、今俺が視界に入れている範囲で正解している問題がひとつも見当たらないのは俺の幻覚か。しかし此処で俺が晴矢のミスを指摘することで折角のやる気に水を差したらまずい。何より彼の回答に完全正解を求める必要すらない。自力で全て解くというのも確かにひとつの成果ではある、が。仕方ないので晴矢の手が止まった時にでも教えよう。そう決めて、俺は予備校の方で出された宿題に着手する。何だかんだで、俺は今までの夏休みの中で今が一番勉強している。受験生ならばこれが当然なのだろうか。別に、そんな必死にならなくては入らないレベルの大学を目指している訳でもないのに。

 お互いが無言で勉強しているという、俺達にしてはかなり異質な、この時期特有の時間が流れて行く。意外にも晴矢の集中力はなかなか途切れず、ワークも半分を過ぎていた。晴矢の凄い所は解らない問題でも途中を脳内ではしょったり補完したりしながら全て答えを出す所だ。答えは出せるのだからぽんぽん問題を解いているように見えるが中身は勿論間違いだらけである。これは流石に好い加減手を止めさせて間違いを直さないと結局一から教え直すことになって時間も倍かかってしまいそうだ。間違いだらけの答案で埋められた晴矢のワークと、先程採点を終えてそれなりの結果を残している自分の問題集を見比べながら何故だか妙な寂しさに襲われる。結構真剣に面倒見たのになあなんて空しさでは決してなく、利きすぎた冷房の風に背筋が震えた所為だと思いたい。