瞬きのカノン

 最後の一小節まで気を張って弾き終えると指が疲労しているのをありありと感じた。楽譜を纏めファイルに入れると置いていた眼鏡を掛け、手首を回しながら席を立ちふと戸口に目をやる。其処には彼≠ェ立っていた。あまりの驚きに一瞬声が出なかったがどうにか搾り出した声で薄ら笑っている彼に声を掛ける。

「…米屋君、どうしてここに?」

 実のところ彼の名前を呼ぶのは初めてだった。というか彼と話すのも初めてだった。

「音が聴こえたから誰かいるのかな〜、って」
「そ、っか」
「福留ピアノ弾けるんだね」

 私の名前が米屋君の口から出てきた事は驚くべき事だった。米屋君はボーダーで格好良くて面白くって、兎に角目立つから関わりのない私が知っていてもおかしくはない。が、私に至っては目立つのが苦手で声も小さく運動も勉強も普通校の中の中。強いて出来る事と言えばピアノを弾く事くらいでそれさえも人前では緊張して弾けないから秘密にしている、要するに極端に目立つ事を避けている私の名前を米屋君は知っていたのだ。

「あっと、うん。あの、良かったらクラスの子には秘密にして欲しいんだけど…」

 胡散臭い笑顔は目が笑っていなくって、理由を促すように只此方を見ていた。でも理由は言いたくなかった。きっと目立つ事に対して特別な感情を抱いていない米屋君には私の気持ちは判らないものなのではないかと思ったのだ。
 必死に米屋君から顔を逸らしていると突然目の前に現れたのは黒い影、ではなく足音を忍ばせて近づいてきた米屋君だった。結局のところ逃げられはしないのだろうか。

「りょーかい」

 こんなに男の人と近づくのは久しぶりで思わず目をひん剥いていたら私と米屋君の間を辛うじて分けていた、苦楽を共にした相棒とさえ言える眼鏡がひょいと取られる。

「てか福留眼鏡ない方が可愛い?あ、親しみ易い?と思うけど」

 あれ顔真っ赤。なんて続いた米屋君の声はもう私の耳には入っていなくって気づいたときには米屋君の手から自分の眼鏡を引っ手繰って今までにない位のスピードで音楽室前の廊下を駆けていた。
 スタートダッシュは成功したとしてもよくよく考えれば部活にさえ入っていない私に延々走り続ける体力など到底あるはずも無かった。自分のクラスに入った私は荒い呼吸をしながら抱きしめていたファイルをなんとなく近くの机に置こうとして動きを止めた。
 
 絶対に足りない。
 
 今日は吹奏楽部が休みだった、つまり長くピアノを使えるということなので家から大量にコピーした楽譜を持参していた。家に帰れば原本はあるものの、あれこれ考えて書き込んだ楽譜は今日持って来ていたものだけだった。
 慌てて走ってきた道を戻ろうとすると「福留!」
 大きな声で呼び止められた。
 
「落としてった。意外とおっちょこちょい?」

 米屋君の手にはシャーペンで細かく書き込まれた私の楽譜が握られていた。

「ありがとう…」
「や、それより眼鏡とったのびっくりさせた?ごめん」
「…えっと、大丈夫」

 どうにか視線を米屋君のほうへ持っていくと当の本人は慈しむ様な優しい手つきで私の楽譜を眺めているものだからちょっと驚いた。

「がんばってんだな」

 そう笑いながらはいよ、と楽譜を渡されてもどきどきと高鳴る胸は止まることを知らずに体の中で響きあう。
 楽譜を受け取ろうと手を伸ばすと同時に何かが衝動的に口をついて出た。

「あの、米屋君もいつもがんばってる、と思う。仕事と学校って両立するの大変だと思うんだけど、いつも元気だし明るいし」

 呆けたように口をあけて此方を見ている米屋君は私よりもずっと背が高くてああ男の子なんだなと身にしみる。

「がんばってる人に頑張ってって言うのはなんか違うんだけど。…応援してる」
 
 じゃ、あの私かえるから。小声でそう付け足して慌てて教室にある自分の鞄を引っ手繰ると楽譜をつめ再度廊下に出る。ちらりと米屋君の方を見やるとまだ冷水を浴びせられたかのような顔をしているのでバイバイと手を振って少しだけ駆けた。

 帰り道が酷く短く感じられた。様々なことを考えながら歩いた所為だと思う。
 あの時衝動的に言葉が出たのは、もうこんな風に言葉を交わす事は無いだろうなとどこかで感じたからだった。やはり立場が違うものなのだ、私と彼は。だから、きっとこんな事をいえるのも今だけだろうと、私の脳は判断したのかもしれなかった。
 自室に入りすぐのところにおいてあるピアノを見ると苦しくなった。米屋君への憧れは今日話したことでそれ以上のものへとなってしまったようだった。きゅうと痛む胸を押さえて鼓動を感じる。一度きりだと自分に言い聞かせて声を殺して泣いた。

 いつもより憂鬱な気持ちで学校に着くと緩慢な動きでローファーを下駄箱に入れる。後ろからポンと肩を叩かれる感触に少し腫れた瞼に気づかれないかと気にしながらおはようと友人の方へと振り返るとそれは友人ではなかった。

「おはよ…って、なんか腫れてる?」

 男らしい指が私の前髪をそっとさらって覗きこむ様に米屋君の顔が近づいてくる。と同時に私の中でせり上げてくる何かを抑えることはできなかった。


「うっ」

 情けない声を上げれば後はあっという間だった。頬を流れる涙がぽたぽたと私の制服に零れる。困ったような声を上げる米屋君の手が私の頭をぽんぽんとなでた。温かいと思った。

 周囲の視線を浴びながら玄関口で泣き、ようやく落ち着いてきた頃に遠慮がちに米屋君が口を開いた。

「昨日の事そんなに気にしてたとは思わなくって。昨日の今日で馴れ馴れしいかな、ほんとごめん」

 ふるふると首を振ると米屋君はさらに困ったように眉根を寄せた。

「私と米屋君違いすぎるから…また話しかけてもらえるとは思わなくって。嬉しくて。昨日の事も、眼鏡外されて嫌だったわけじゃなくて、私米屋君のこと好きだからびっくりしちゃって…あ」

 気づいたときにはもう遅かった。米屋君の口が弧を描いて私の顔に血が昇る。耳を澄まして事の運びを聞いていた周囲の人たちが冷やかしを始める前に、米屋君が私の耳元で
「俺も」
と囁いた。

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