忘れられたイヤホン


普通、人や動物といのは触覚、聴覚、嗅覚、味覚、そして視覚の五つの感覚機能、
いわゆる五感というものを駆使して、(いや、知らず知らずのうちに利用していることも多い、と気づいたのは最近だが)
日常生活を送っている。

例えば五感のうち一つでも失われようものなら、当たり前にあった五感のありがたみに気づき、
そして不便な生活を送ることとなる。


私は、視覚を失った。


人が視覚から得る情報量は八割を超えると言われている。
視覚を失った私の五感は、この一年間で視覚を補うように、敏感になった。

例えば聴覚。


今だって、病院の、一人部屋のスライド式の扉を隔てた向こう側の音が、
やけに明瞭に聞こえてくる。
片耳にはイヤホンをしているのに。

静かな空間の中に、ささやきあう様な人たちの話し声。
遠くから走ってくるように近づいてくる足音。
走らないでください、と少し怒ったように注意する看護師さんの声。


足音が近くまで、多分扉の前まできたところで、止まった。

少し間があって、スッ、と扉がスライドする音が聞こえる。

息を呑むような、そんな音がして。

私は嗅いだことのある、少し懐かしさを覚えるような制汗剤の匂いに、
自然と口がその名を紡いだことを、聴覚から知った。


「二口、さん」


久しぶりに開いた口は、さっきカフェオレを飲んだはずなのに、からからに乾いていて、
自分でも驚くほどかすれた声だった。

するすると扉が自動的にしまっていく音を耳にして、彼が部屋の中にいるのか
それとも廊下にいるのかわからなくなった。

でもまだ制汗剤の匂いが、うっすらと漂う。

動きあぐねていると、深く、長い溜息が聞こえて、

「新田、だろ」

「・・・はい」

久しぶりに聞いた二口さんの声は、学校の喧騒の中と病院という
対照的な空間のせいもあるだろうけれど、思った以上にクリアに聞こえた。

私の名前を、その声で呼んで。

欲張りな心は、新しい欲望を簡単に生み出していく。

それでも、一年ぶりに聞くその声に自然とニヤけそうになる口元に
力をいれ、乾いた唇を舌で潤した。


「久しぶり。」

「久しぶりです。お元気でしたか?」

「お元気でしたが。そっちは元気じゃなさそうデスネ」


心地よい軽口は空気が重くなりすぎない。
どこかすねたような二口さんの口調が可笑しかった。


「何笑ってんだよ」

「なんか、拗ねてるみたいだから。それと、元気ですよ。
色々事情があって、入院してるだけで、基本動けますし。」

「あ、そなの。心配して損したー」

包帯は見えているはずだが、そこに触れないのは彼の優しさだろう。
だけど、二口さんとはこれからも会いたいし(これは私のわがままだが)
そのためには知っておいて欲しかった。

「なあ」

あの、と言いかけたところで先に二口さんの声に遮られた。

「聞いてもいいの?」

主語がなくてもそれは意味を疎通させるのには十分すぎた。

「・・・はい、私も。話そうと、思っていました。」

ほっと息を抜く声が聞こえて、二口さんが緊張していたことが伺える。
ゆっくりとベッドから上半身を起き上がらせながらそういえば、と思い出した。

「椅子、座ってくださいね。」

「ああ、うん」

ガタンと椅子を出す音が、静かな病室に響いた。

今日は土曜日で、少し前に昼食を食べ終えたばかりだから、
2時前といったところだろう。
窓から差し込んでくる光が、肌に暖かい。

未だ片耳に付けられていた、忘れられていたイヤホンをとって、机の上においた。


「長い話になりますが」



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