ソロモン・グランディの嘘 | ナノ





 
ピーーッと甲高い笛の音が聞こえた途端、風丸はトラックに膝をついた。

心臓がうるさい、呼吸が荒い。四つん這いになったまま動かない風丸の脇を、三年の先輩が笑いを含んだ声で「しっかりクールダウンしろよー」と言いながら通り過ぎた。三年生なだけはあって、汗が浮かんだその顔はまだ余裕そうである。

そうだ、クールダウン。暑さと疲労のせいでぼうっとする頭を上げると、よろよろと風丸は立ち上がった。二年の先輩がその背中を叩き、「しっかりしろよ」と笑う。風丸は返す言葉もなく、口を開けたまま頭上を見上げた。

高く晴れ渡った空に入道雲が浮かんでいる。恨めしいほどいい天気だ。そう思った瞬間、風丸の意識は青空に吸い込まれていた。




「ん……?」


重たい瞼をこじ開けたはずが、なぜか暗いままだった。何も見えない。どうやら、目の上になにかが乗っているらしい。

退かそうと手を伸ばすと、「気がついた?」と軽やかな声が聞こえてきた。それと一緒に心地よく肌に当たっていた風もぴたりと止む。風丸は慌てて額に置かれていた冷たいなにかを掴むと起き上がった。目の前にはなぜかよく見知った女の先輩がいた。


「え、先輩? 俺たしか練習中じゃ……」


目を白黒させる風丸がおかしかったのか、先輩と呼ばれた三年生のマネージャーはくすくすと笑う。


「風丸くん、練習中に倒れちゃったのよ。頑張り過ぎたのね」


片手で持ったうちわをひらひらと揺らしながら、マネージャーは穏やかに笑った。言われてみれば、風丸とマネージャーがいるのはグラウンドの端の木立の中で、視界を遮っていたのは冷たい濡れタオルである。


「……そう、ですか」


風丸は眉を寄せた。こんなことでどうするのだろう。

暗くなった風丸の顔色に気付いたのか、マネージャーはドリンクの入ったボトルを手渡しながら「あまり気に病まなくて大丈夫よ」と優しく言った。


「風丸くんはまだ一年生だし、うちの期待のホープなんだから。陸上を続けていく内に体力だってつくわ」
「……はい」


返事をしながら、風丸は吸い込まれるような青空に目を向けた。ピーーッと甲高い笛の音が聞こえる。


「それじゃあ、私部長に風丸くんが目を覚ましたって伝えてくるから。風丸くんはまだゆっくり休んでてね」


「すみません」風丸はぺこりと頭を下げた。

マネージャーはグラウンドへと向かっていく。焦がされるような外と違い、木立の中はひんやりと冷たかった。蝉の声が聞こえる。

風丸は、ぼんやりとユニフォームを見下ろした。


「大丈夫? 一郎太くん」


さわさわと風で揺れる木立の中から、ひょいっと麦わら帽が顔を出した。白いワンピースの裾が雲のように形を変える。

風丸は視線だけで振り返ると、すぐ傍の木の幹に身体を預けた。ゆっくりと息を吐く。だるさは残っていたが、気分はそう悪くない。


「うん。平気」
「ホントに?」


「うん」と相槌を打つと、風丸の目の前に逆さになった望の顔がにゅっと現れた。

風丸よりも長い髪が逆さに零れ落ちているが、何故か麦わら帽は変わらない。このいい加減さが中途半端な幽霊のクオリティである。

風丸は特になんのリアクションも返さず、望の青白い顔を見ていた。


「嘘はよくないよ、一郎太くん」
「なんで嘘だと思うんだ?」
「だっていつもの一郎太くんなら、絶対ビビるはずだもん。それこそちびっちゃうくらい」
「ちびるはずないだろ、望じゃあるまいし」


「女の子がちびるはずないじゃん、一郎太くんは馬鹿だなあ」風丸が驚かないせいか、望は肩を竦めると風丸の隣に腰かける。

女の子の前に幽霊なんだからちびれないだろと風丸は思ったが口には出さなかった。幽霊は暢気そうな顔で足を投げ出し、風丸と同じグラウンドを見ている。休憩は終わったのか、マネージャーが部員たちのタイムを計っていた。


「もうすぐ、」


風丸はぽつりと呟いた。
視線の先で「クールダウンしろよ」と声をかけてくれた先輩がトラックを駆け抜けている。


「もうすぐ、先輩たちが引退するんだよ」


幽霊は横目で風丸の顔を見た。幼い横顔はぼんやりとグラウンドを見下ろしている。どこか夢心地なのかもしれない。


「入部してからずっとあの人たちがいて、俺にとっての陸上部って先輩たちが揃ってるいましかないんだ。だから先輩たちが引退するのも、俺に後輩が出来るのもなんだか実感が湧かなくて」


蝉の声も、グラウンドの音も声も、望と風丸にはどこか別世界のように遠かった。二人を膜のようなものが包み込んで、夏の景色を霞ませる。

望はなんとなく、伸ばしていた足を抱えた。風丸が羨ましかった。


「それでも、先輩の背中を見るたびにしっかりしなきゃ、俺がやらなきゃって思うんだ。永遠なんて、無いんだから」


二人の間を風が吹く。そよそよと風丸のポニーテールを揺らしたそれは、幽霊をすり抜けて青空に吸い込まれる。

「うん」望は青空を見つめた。「うん」繰り返しながら、望はふんわりと微笑んだ。


「一郎太くんなら、絶対出来るよ。後輩に好かれるような、いい先輩になれる」
「だったらいいけど」


風丸はくすぐったそうに笑った。


「それじゃあ、先ずは体力つけるところから始めないとな」


風丸は立ち上がると、グラウンドに向けて歩き出した。望はぼんやりとそれを見ている。

「行ってらっしゃい」そう言うと、風丸が不思議そうな顔で振り返った。


「なに言ってるんだよ、望も一緒に行くんだ」
「え?」
「まだそんなに離れられないだろ」


「ほら」風丸は望に手を差し出した。

きっとそれは無意識なのだろう。幽霊である望には触れることの出来ない優しさだったけれど、望は微笑みながらその手を取った。

「あ、」気付いた風丸が、頬を赤らめて手を引っ込めようとする。けれど望は「このままがいい」と首を振った。

重ならない手にも望は嬉しそうに笑う。鮮やかな夏の景色が二人の間に戻っていた。