ソロモン・グランディの嘘 | ナノ





 
土暮望と名乗った女性、もとい幽霊は本人の言う通り自分の名前以外なにも覚えていなかった。

自分がなぜ死んだのかも、どうして幽霊のままここに留まっているのかもわからないそうだ。記憶喪失、という言葉が幽霊である彼女に適応されるのかはわからないが、彼女はまさしく記憶喪失の幽霊だった。

風丸はさして彼女のそういった事情に興味はなかったのだが、さりげなくを装い父にも母にも土暮望という名前に聞き覚えはあるかと尋ねてみたりもした。

結果はまあ、散々だったが。

挙句、父親に「一郎太ももうそんな年かぁ」とやけにしみじみと言われたので、風丸は聞いた事を後悔した。
しかし三歩後ろの誰にも見えない幽霊は嬉しそうに笑っていたので、風丸はまあいいかと躊躇いながらも頭を掻いた。男という生き物はいつの世も単純である。

ちなみに何故三歩後ろなのかといえば、風丸と幽霊が三歩以上離れられないからにほかならない。


「一郎太くん」


風丸と望のそんな奇妙な同居生活が始まって一週間もしないうちに、望はいつの間にか風丸のことをそう呼ぶようになっていた。風丸もつられるように幽霊を望と呼ぶ。

幽霊とはいえ、いくつか年上の女性を呼び捨てにすることに最初は抵抗もあったのだが、望と呼ぶたび幽霊がふんわりと優しく笑うので風丸は無駄な躊躇いを捨てることにした。どうせ、誰にも見えてはいないのである。風丸はいつしか、彼女の名前を呼ぶことが好きになっていた。


「なに?」


メッキだった敬語も、彼女を呼び捨てで呼ぶうちにベリベリと剥がれた。風丸はまだ中学一年生であり、半年前まではランドセルを背負っていたような子供である。46時中嫌でも一緒にいる彼女にずっと敬語を使えるはずもない。
彼女はまたふんわりと優しく笑った。


「いまね、ママさんがご近所の方からスイカをいただいてたの! きっとおやつはスイカね、楽しみ!」


彼女はふわふわと白いワンピースの裾を翻しながらぼうっとテレビを見ていた風丸の横でくるくる踊り始める。

望は外見のわりに子供っぽく、いやに明るい性格をしていた。初対面の時の儚そうな雰囲気はどうしたんだ、と思ったがあれは多少猫を被っていたらしい。

とにかくそんな風に幽霊の辛気臭さとは一切無縁なので、時々風丸は望が死人であることを忘れそうになる。風丸はたいして面白くもないテレビから視線をあげて、まだくるくると回り続けていた望を呆れた眼差しで見た。


「望は食べれないだろ」
「もー、一郎太くんってすぐそんなことばっかり言う! こういうのは気分が大事なのよ、気分が!」


「気分ねぇ、」と肩を竦めると望は頬を膨らませた。風丸のリアクションが気に入らないらしい。
そんな仕草も、風丸のメッキにひびをいれた原因ではあるのだけど当の幽霊は無自覚だ。生きているころはさぞ人から好かれていたのだろう。短いながらも一緒に送る生活で垣間見た望の気質を思い浮かべて、風丸は笑った。


「……一郎太くん、なんで笑うの?」
「望には関係ないさ」
「なにそれひどい! そんな可愛くないこと言う一郎太くんにはスイカはあげないからね!」


できもしないくせにそんなことを真剣な顔で言い張る望にますます笑いを誘われて、風丸は「はいはい」とおざなりな返事を返しながらリビングに向かう。そこでは母親が望が言っていた通りスイカを切り分けているところだった。


「あら、一郎太いいところに。これ、もらいものなんだけどちょっと大きすぎて冷蔵庫に入らないのよね。ちょっと減らすの手伝ってくれない?」
「うん、いいよ」


風丸が笑顔で頷くと、母親は「なんか機嫌よさそうねぇ、そんなにスイカ好きだったかしら?」と不思議そうに首を傾げた。しかしもちろん、風丸の笑顔の理由は真っ赤に熟れたスイカのせいではない。


「だめだめだめーっ! ママさん、一郎太くんになんかスイカあげなくていいんですっ」


さっきから隣で喚いている幽霊のせいだ。母親にも父親にも霊感なんてないので、勿論よだれを垂らしながら暴れている幽霊など見えていない。風丸は笑いながら「今はそうかもね」と返しておいた。母親がますます不思議そうな顔をしたのは言うまでもない。


「あ、そうそう。ついでにこれ、おばあちゃんにも届けておいてね」
「部屋にいるの?」
「ええ。最近暑いでしょう、部屋から出るのも億劫らしくて。でも、最近食欲も落ちてきてるみたいだからこれも食べてくれるかわからないけど」
「ふぅん」


母親は溜息を吐きながら風丸にもう一つ余分に皿を持たせた。幽霊は風丸が構ってくれないことに気づいたのか、すっかり大人しくなっている。
リビングを出て廊下に出ると、望もついてきた。それをなんとなく振り返って確認した風丸は、居間を横切りながらようやく気付いた。


「……望、いつの間に三歩以上離れられるようになったんだ?」
「え?」


望が首を傾げた。
風丸は改めて周囲に誰もいないことを確認すると、ひそひそと話し始める。


「どうやって望はスイカのこと知ったんだよ?」
「リビングに遊びに行ったら、ママさんが嬉しそうにパパさんに電話してて……」
「だからさ、居間とリビングって三歩分以上の距離があったろ」
「……あーー!!!」


望は突然叫ぶと、風丸から距離を取った。

なんとなく予想していたことだったのでそのままじっとしていると、ちょうど七歩分ほどで立ち止まる。どうやらそこがいまの限界らしいが、二人の距離は最初と比べて約二倍も伸びていた。

どういう仕組みで距離が伸びたのかはわからなかったが、風丸は素直に「おお」と感心した。これでトイレやお風呂で気まずい思いをしなくて済む、という安堵感の方が強かったがそれ以上に望の喜び方が凄かった。


「やったああああ! 一郎太くん、見た?! この分ならわたしそのうちお散歩にも一人で行けそうな気がするよ! 神様仏様ありがとうーーっ!」


そんなのいいから早く成仏しろよ、と風丸は思わないでもなかったが生ぬるい微笑みを浮かべるだけで留めておいた。

自分には理解できないが、望は自由に行動できないことに相当鬱憤を溜めこんでいたらしい。恥ずかしげもなく小躍りまでしてみせる。

なんというか、徐々にその喜びようが風丸と離れられて清々しているようにも見え、風丸は段々とムカついてきた。唇をひん曲げてすたすたと歩き出すと、踊りながら望がついてくる。


「なになに、どうしたの?」
「べつに」


「あらやだ、反抗期かしらぁ」などとへらへら笑う幽霊に風丸が無言のまま鼻で笑うと、憤慨したように噛みついてきた。

それでこそ望だ、満足気にそう思っていると風丸が目指していた襖がひとりでに開いた。

自動ドアなんてハイテクなものはないので、当然中から人が出てくる。シワだらけの顔を優しく緩ませている祖母だ。風丸は慌てて祖母の傍に寄った。


「おやおや、騒がしいと思ったら一郎太ね」
「え……」


祖母の言葉に、ドキリと心臓が跳ねた。さっきの遣り取りを聞かれていたのだろうか。

ちらりと隣の幽霊を見ると、望は暢気に「はじめましてー、土暮望って言います! この間からこちらの一郎太くんにお世話になっております」とにこにこ笑いながら挨拶をしていた。


馬鹿か!


風丸は思わず怒鳴りそうになったがこの幽霊が見えるのは自分だけだ、と思い直してひくつく唇をどうにか笑みの形にする。無駄な労力を使っている気がした。


「おばあちゃん、これ。近所の人にもらったんだって」


風丸は片方の皿を祖母に渡した。

望は無遠慮に皿の中を覗き込みながら再びだらだらとよだれを垂らし「すっごく美味しそうですよねぇ、無感動な一郎太くんよりもわたしが食べた方がこのスイカも幸せだと思うんですけど、わたしったら死んじゃってるせいで食べれないんですよ。世の中って世知辛いと思いませんか?」などと勝手にべらべら喋っている。

米神が引き攣れそうになりながら望を睨みつけると、あっかんべ、と舌を出された。最初の頃の望のもじもじ具合がいまでは懐かしい。


「ふふ、本当においしそうなスイカねぇ」


祖母の言葉に、風丸は慌てて意識を戻した。シワだらけの穏やかな顔が笑っている。この笑顔が、風丸は少し苦手だった。


「もしあまり具合がよくないなら、無理に食べなくてもいいからさ」
「大丈夫よ、きちんといただきます。一郎太は相変わらず優しい子ねぇ」


ふふふ、と微笑んだ祖母が皿を抱えていない手を動かす。

あ、と思ったときには遅い。風丸は咄嗟に頭に伸ばされた手を避けてしまった。


「一郎太くんどうしたの?」


気まずい顔をした風丸に幽霊が呑気な声をかける。

わかっている、祖母はただ自分の頭を撫でようとしただけだ。祖母は少し悲しそうな顔をしたあと、「ありがとうね」とだけ言って部屋に戻る。

風丸は少しの間だけ閉められた襖の色褪せた柄を見つめていたが、やがて踵を返した。
歩きながら空いた片手でスイカをつまみ、齧りつく。口の中でくしゃりと崩れた部分からあまい果汁が溢れだした。
「お行儀が悪いよ」と言ってくる望の声には聞こえていないフリをして、風丸は赤い汁を飲み干した。