ソロモン・グランディの嘘 | ナノ





 
風丸は結局、河川敷で足を止めた。

どれだけ走っても女性が疲れた顔一つしないでぴったり三歩後ろをついてきたのと、風丸の身体が限界を迎えたせいだ。
風丸が顎先からぽたぽたと汗を垂らしながらベンチに座りこんでいても、女性は涼しげな顔で風丸の前に立っている。


「大丈夫?」
「大丈夫に、見え、ますか」
「あー……」


思わず恨めしそうな顔で見上げると、女性は困ったような顔をした。困っているのは俺の方だと風丸は言ってやりたかったが、荒い呼吸が邪魔をしてなにも言えなかった。……ちくしょう。

この暑さの中で身体を動かしたせいか、とにかく喉が渇いて仕方ない。握りしめていたコンビニの袋からアイスを取り出してみると、やはり溶けかけている。風丸は溜息を吐きながらぺりぺりとフィルムを剥がし、口の中に突っ込んだ。

オレンジのシャーベットが口の中でじわりと溶け、優しい味を舌の上に広げる。どこもかしこも熱かったが、口の中だけはオアシスのようだった。


「それで、どうして俺についてきたんです?」


風丸はもごもごと口を動かしながら女性を見た。えらく悲しそうな顔で熱心にアイスを見つめ続けているが、分けてやる気にはならない。


「それが、わたしにもわからなくて……。気づいたらあそこにいて、でも動けなくって。助けを呼んでも誰も気づいてくれないし、途方に暮れてたの。そしたらあなただけがわたしを見てくれて、話してくれて、そしたら……」
「あー……、そうですか」


なんともいえない顔で風丸がアイスに歯を立てて噛み砕くと、女性は喉を鳴らして食い入るように見つめてくる。……そんなにアイスが欲しいか。

風丸の視線が白けたものになったのを感じたのか、女性が口元を拭って風丸の目を見た。女性の顔は真剣だった。


「本当なの! わたし、自分の名前しか覚えてなくて、ここがどこかもわからないし、いくら話しかけても誰も反応してくれないし……!」
「だってあなた、」


風丸は噛み砕いたアイスを喉に流し込みながら、食べかけのアイスを女性に突き出した。


「死んでますもん」


は、と女性がか細い声を出した。呆然と風丸を見ている。風丸はアイスだけを見ていた。


「な、にを?」
「動かないで、見ててくださいね」


風丸はそう言うと、アイスを握る手をさらに突き出した。歯形の残るアイスからぽたりとオレンジ色の滴が零れ落ちる。
女性は咄嗟に身を引きそうになったが、風丸の目に制されぐっと抑えた。垂れた滴は女性の懸念とは裏腹にそのまま地面に着地する。剥き出しの土がそこだけ色を変えた。

女性はぽかんと地面を見つめる。丸くなった黒目をぱちぱちと瞬くと、ワンピースをすり抜けた雫の跡だけじゃなく信じられないものを見つけた。

―……影がない。どこを探しても、風丸の分の影しかなかった。


「ほらね」


風丸は再びアイスを咥えると、今度はアイスじゃなく自分の手を伸ばした。風丸の手が女性の手に触れる―……そう見えたが、実際には女性の手をすり抜けて、風丸の手はひやりとした空気に晒されていた。幽霊って冷たいんだなあ、と風丸は初めて触れた感触に目を細めている。

女性の目はますます丸くなり、そのままの顔で固まった。あまり長くこうしているのも悪いだろうと、風丸は手を引っ込めるとアイスを減らすことに専念し始めた。

風丸は自分でも不思議なほど冷静だった。
幽霊と話すことも初めてではあったのだが、その存在ならば時々目にしていたせいかもしれない。


そう、風丸には霊感と呼ばれるものがあった。いわゆる、視える人、というやつである。視えるだけで、幽霊の声を聞いたこともなかったし、会話などもっての外だったのだが。
それが何故か、この幽霊とは会話できる。風丸にもその理由はわからなかった。


「……わたし、死んでいたんですか」
「残念ながらそうみたいですよ」
「……そう、そうですか」


がりがりと最後の一口を噛んでいた風丸が、ふいに顔を上げた。
気のせいじゃなければ、女性の声はどこか安堵したような響きだったように思えたからだ。案の定、女性は嬉しそうな顔をしていたが風丸にはその理由がわからなかった。

死んでいることがわかったら、普通はもっと取り乱すものなんじゃないだろうか。

風丸の視線に気づいた女性が、微笑みながら教えてくれた。


「ああ、べつにね、自分が死んでいたことが嬉しいわけじゃないの。ただ、自分がどういう存在なのかずっとわからなかったから、なんだか安心して」
「……そういうものですか」
「うん」


「教えてくれてありがとう」と女性がにっこり笑うので、風丸は気の抜けたような返事しか返せなかった。

幽霊と話すのも、死んでいることに気付いていなかった幽霊に会ったのも初めてだったが、幽霊だとかそんなことは関係なく麦わら帽を被った女性はとても穏やかで、風丸はなんだか笑えた。


「おもしろい人ですね」
「そうかなあ?」


不思議そうに目を瞬いた女性がやたら人間染みていて、「ああ、すごく」と風丸は優しい笑顔で言った。女性もしばらく首を傾げていたが、やがてふんわりと笑う。

いつの間にか辺りは傾いた日に包まれていて、夕暮れの中にひらひらと翻る白いワンピースと綺麗な微笑みだけが浮いていた。



ふいにがさりという音が空気を裂いて、風丸ははっとした。惰性で咥えていたアイスの棒がぽろりと落ちる。

どうしよう、忘れていた……!

顔色を変えた風丸に、女性は不思議そうな顔で首を傾げる。


「どうかしたんですか?」
「お遣いの途中だったんですよ! ヤバイ、俺もう帰りますね!」


慌てて立ち上がり、脇に置いていたコンビニの袋を掴むと女性が寂しそうな顔をした。
風丸もなんだか寂しく思ったが、これ以上一緒にいることは出来ない。

彼女は死人であり、風丸は生きている。お互いに流れている時間も違うし、少し酷い言い草かもしれないが長く一緒にいたいとは思えなかった。幽霊とは死を象徴する存在であり、本来ならもっと恐ろしい存在であることを風丸はよく知っている。


「そうですか……。あの、いろいろとありがとう」
「いえ、はやく成仏できるといいですね」


言うだけ言って、風丸は夕闇に沈む街へと駆け出した。ああ、名前を聞き忘れてしまったな。走りながら、そのことだけが少し引っかかっていた。

しかし、それはすぐに解決する。

家につき、母親の文句を聞き流しながら洗面台で手を洗っていた風丸は、ふいに鏡の端に映っていたものを見て……驚き過ぎて言葉が出てこなくなった。

「聞いてるのー?」と不満そうな母親の声が遠くから聞こえてくる。いくら口をぱくぱく開閉させても言葉が出てこないのだから、返事のしようがない。

風丸と鏡越しで視線を合わせていたそれが代わりのように口を開く。


「ご、ごめんなさい……。わたし、あなたにとり憑いちゃったみたいで……!」


しばらくの沈黙のあと、風丸は溜息を吐いた。なんていうか、頭が痛い。振り返ると麦わら帽を被った白いワンピースの女性が心底申し訳なさそうな顔で立っていた。所在なさそうに洗面台の隅に立っているのが、いかにもそれらしい。風丸はまた溜息を吐いた。女性の肩がびくりと跳ねる。


「風丸一郎太」
「え?」


ぶっきら棒に告げた名前に、女性が目を瞬いた。麦わら帽から覗く顔は不思議そうだったが、やがて華やかに笑う。どうやら、風丸の言葉の意味がわかったらしい。


「土暮望!」


風もないのに、ふわふわと白いワンピースがひとりでに揺れた。