ソロモン・グランディの嘘 | ナノ





 
「solomon Grundy, Born on a monday, Christende on Tuesday, Married on wednesday, Took ill Thursday,」




その日は観測史上最高気温を更新したとかいう、とにかく近年稀に見る暑い日のことだった。

学校はどこも夏休みに入り、普段ならば元気いっぱいの少年少女たちが駆けまわっているような公園も道路も、今は真昼間だというのにしんとして誰もいない。
熱されたアスファルトからは陽炎が揺らめき、むわりとした生ぬるい風が吹くたびどこからかチリンと音だけは涼しげな鈴の音が聞こえる。しかしそれを掻き消すような蝉の鳴き声が騒音となって耳をつんざく。


あついし、うるさい。


風丸は溜息を吐くだけの気力もなく、じりじりと痛いほどの日差しから少しでも逃れようと軒先に出来た僅かな日陰を選びながら家までの道のりを歩いていた。

片手から提げたコンビニの袋が揺れるたび、風丸の気分は上下する。袋の中には、買ってきていいと言われたアイスが一つと、母に頼まれためんつゆが一本入っていた。

正直に言えば風丸もこんな酷暑の日に外を出歩きたくなんかなかったのだが、母に小銭を握らされて放り出されてしまったらもうどうすることも出来ない。いまと同じ道をとぼとぼと歩いた先のコンビニは、環境問題への無関心っぷりが心地よくさえ思えたほどだ。

汗で湿ったポニーテールや服が不快で、手の甲で額の汗を乱暴に拭っていると歌が聞こえた。


「solomon Grundy, Born on a monday, Christende on Tuesday, Married on wednesday, Took ill Thursday,」


優しく透き通るような声が、生ぬるい風と一緒に届く。チリン、と風鈴の音が聞こえた。

どこかで誰かが歌っているんだろうか。

異国の言葉で紡がれる聞きなれない歌に耳を傾けながら、風丸は角を曲がった。
歌が聞こえる方向も、家の方向もちょうど同じだ。歌声は大きくなる。


「Worse on Friday, Died on Saturday, Buried on Sunday This is the end Of Solmon Grundy.」


閑静な住宅街で歌うにしては周りの耳を気にしな過ぎな気もするが、聞いていて不快な声でも歌でもなかった。むしろ、聞き飽きた蝉のカルテットなんかより女性らしき歌い手の柔らかな声の方がよほど心地いい。

歌の意味はわからないし、メロディにも馴染みはないが子守唄のように淡い響きはささくれ立っていた風丸の心をそっと宥める。歌声に耳を澄ましながらなんとなく溜息を吐くと、靴先の向こうの地面が影のように揺れた。

慌てて踏み出した足を戻すと、なんてことはないただの陽炎である。ほっとして顔を上げると、いつの間にか歌が止んでいた。なんだ、もう終わりなのか。

なんとなく惜しいような気分になったが、風丸は再び足を踏み出した。早く帰らなければアイスが溶けてしまう。幸い、そこの曲がり角を曲がれば、風丸の家は目前である。それを視界に収めて、風丸は瞳を瞬いた。
その手前の塀の前に若い女性が一人だけ立っている。外に出て初めての通行人だった。

なんとなく興味が湧いて、風丸は女性をそっと観察した。この辺りでは見かけたことがない顔だったが、青白い肌が不安になるくらいに儚そうな人だった。

夏らしいふわふわ揺れるノースリーブの白いワンピースから剥き出しの手足は、驚くほど細い。浅く被った麦わら帽子から覗く顔もどこか憂鬱そうである。この暑さに参っているのかもしれない。

ふいに此方を振り返った女性と目があって、風丸は少しだけ罰が悪くなった。じろじろと見過ぎたのかもしれない。
目を丸くした女性に僅かに頭を下げて、足早にその脇をすり抜けようとした時だった。


「あの、」


背中にかけられた穏やかな声に、足がぴたりと止まる。なんとなくその声に聞き覚えがあった。


「はい?」


風丸が振り返ると、女性はひどく驚いたあと困惑したような顔をした。まるで風丸が立ち止まるとは思ってもいなかったような顔である。そんなに無愛想に見えたのだろうか。
なんとなく気分が悪くなって、風丸は無言のままころころとよく変わる女性の顔を見つめていた。

女性と風丸はしばらくそうして無言のまま見つめあっていたが、その奇妙な光景を見ていたのは塀の上で項垂れた猫一匹だけだった。
早く帰りたい。もう何度目になるのか風丸がそう思った時、女性がようやく口を開いた。


「あ、の。わたしが見えるんですか? わたしの声、聞こえてますか?」
「はあ?」


不意打ちに、思わず風丸は顔を顰めてしまった。いきなりこの女性はなにを言っているんだろうか。しかし女性は風丸の怪訝な顔を見て、むしろ嬉しそうに破顔した。
それを見て、風丸はようやく気付いた。これは、関わってはいけない例のアレだと。

風丸は急いで女性に背中を向け、陸上部で鍛えられた俊足を活かして駈けた。普通の人ならついてはこれないスピードだ。そのハズだった。

しかし風丸が視線だけを後ろに流すと、麦わら帽子の女性は白いワンピースの裾をひらひらと翻しながら、風丸の三歩後ろをぴったりとついてきていた。

風丸の身体に衝撃と恐怖が同時に走った。怖い、怖すぎる。暑さなどすっかり吹っ飛んで、風丸の身体からは一気に熱が去った。


「つ、ついてこないでください!」
「違いますよう、身体が勝手に……!」


お互いがお互いの主張を繰り返していると、風丸と表札のかかった家が見えてきた。しかし、この女性がいては帰りたくても帰れない。風丸は泣く泣く自分の家を通り過ぎ、誰もいないアスファルトの道路をしっかり三歩後ろをついてくる女性をつれて駆け抜ける。奇妙な白昼劇の始まりだった。