ソロモン・グランディの嘘 | ナノ





 
聞きなれた声に名前を呼ばれたような気がして、風丸はうっすらと目を開けた。ふわふわとした眠気に包まれて、居心地のよい温もりに気を抜くとまた眠りそうになる。風丸が鈍い動きで瞬きをすると今度ははっきりと声が聞こえた。


「……望?」


寝起きで掠れた声が風丸の乾いた唇から零れる。暗闇のなかで踊る白いワンピースの裾を辿ると、ベッドで眠りについていた風丸を見下ろすように望が立っていた。


「どうしたんだ?」


声をかけると、麦わら帽の下の顔が微笑んだように見えた。電気のない夜の暗さと風丸の意識がぼんやりとしているせいで、望の表情を正確に読み取ることはできなかったが。


「あのね、今日はすごくきれいなお月さまが出てるの」
「……それがなんだよ」


眠いんだけど、と片手で目を擦ると欠伸が自然と漏れた。目の端に溜まる涙を払っていると望の姿がぐにゃりと歪む。


「眠いの?」
「あたりまえだろ。あしたも部活だし……」


答えながら、風丸の口からは引切り無しにあくびが漏れる。枕に頬を擦り付けながら足をもぞもぞと動かし、寝易い姿勢を確保すると意識の端からとろとろとした眠気が這い上がってくるのがわかった。


「でも、ほんとうにお月さまがきれいなのよ」


望は自分のワンピースの裾を握り締めて精一杯そう伝えたが、まどろむ風丸からの返事は「そうか」の一言だけだった。ついに目を閉じてしまった風丸の胸が上下しているのが見えて、望にはそれ以上なにかを言うことはできなくなる。

やがて諦めたように微かに笑うと、望は風丸の頭に手を伸ばしてゆっくりと撫でるような動きを繰り返した。


「そうだよね、眠いよね。起こしてごめんね、一郎太くん。おやすみなさい」
「ん……、望も、おやすみ」


風丸はもう一度だけオレンジ色の両目を開くと、蕩けるように微笑んだ。
月の光に濡れた輝きを放つ美しい瞳と幼い笑い顔に望は泣き出しそうになる。しかし風丸はほんの瞬きの間にそれを消すと、そのまま深く意識を沈めてしまった。


「……一郎太くん」


縋るように呼んだ望の声が届くような奇跡は、もう二度とは起こらない。

寝息を漏らす風丸に望はそれを思い知って、ただただ薄く笑った。泣きだしたいような笑いたいような、後悔しているような吹っ切れているような、そんな変わった気分だった。

いつか風丸は、自分が残したこの言葉の意味を知る時がくるのだろうか。もしかしたら、この記憶もこの言葉も彼が目覚める頃には全て消えているかもしれない。


「それなら、それでいいの。そうして全部忘れてしまえた方が、優しいきみはきっと幸せになれる」


決して触ることの出来ない風丸の頭から手を放すと、望は月の光の零れる窓ガラスに目を向けた。自嘲するような苦い笑みが望の顔に浮かぶ。忘れてしまった方がいいと言いながら、それを直接風丸には言わない自分の卑怯さが醜かった。


「だって、本当は忘れてほしくなんかないもん。ずっと悲しんでいてほしいし、わたしを好きなままでいてくれたら、どれだけ幸せなんだろう」


どちらの言葉も、紛れもなく望の真実だ。そして風丸がどちらの道を取るのかは風丸自身の自由なのだ。何者にも囚われることのない、自由な風。そうであってほしかった。だから余計な言葉なんてなにも残さず、ひっそりと消えることを望んでいたのに。


「あーあ、クリスマスツリー見れなかったなあ……」


たった一つの心残りをぼやくと、望は風丸の穏やかな寝顔を見つめた。
「おやすみ、一郎太くん」そして微かに笑うと白いワンピースの裾を翻して窓ガラスをすり抜け、月の光が照らす夜闇に身をゆだねる。


そしてそのまま、彼女が戻ってくることはなかった。




風丸は寝転がった縁側から月を眺めていた。

望が姿を消した日から、もうどれほどになるのだろうか。気まぐれな幽霊の帰りを待って翌日を迎える内に一週間が過ぎ、約束のクリスマスが過ぎ、正月が過ぎ、冬が過ぎ、春が来た。その春さえ移り変わって夏を迎えようとしている。

それだけの時間が経ったいまも、風丸は月を見上げることを止めることができないのだ。

風丸が瞳を閉じると、少し離れたところからギシリと床が鳴るのが聞こえた。視線を向けると、祖母が立っている。風丸の指先がわずかに動いた。


「一郎太、お行儀が悪いわねえ。そんなところで寝転がっているから少し驚いたわ」
「ごめん、でも、今日の月がとてもきれいだったから」


上半身を起こしながら答えると、祖母は驚いたように目を見開いた。そして夜空に浮かぶ淡い満月を見あげて「そうねえ」とかるく頷く。


「確かに今日の月は特別きれいだけど、その言葉はあまり異性に言わないようにしなさいね」


穏やかな笑みを含んだ祖母の言葉に風丸の心臓が小さく跳ねた。
「どうして?」なんでもない風に言ったが、風丸の掌がじっとりと汗ばむ。「あら」、と祖母がおかしそうに言うのが聞こえた。


「日本風の『I love you』だからよ」


風丸は眉間に力をこめて、精一杯眉を寄せた。そうしなければ、泣きだしてしまいそうだった。あいつは馬鹿だ。馬鹿だ馬鹿だとずっと思っていたけど、本当の大馬鹿だ。

風丸が堪らなくなって顔を伏せると、祖母は穏やかな声で続けた。


「そういえば一郎太、あの元気な子はどこに行ったの?」
「……え?」
「あの子よ、白いワンピースで麦わら帽子を被った、とっても元気のいい女の子」


思わず風丸が祖母を振り返ると、月明かりに照らされたシワだらけの顔は少し寂しそうに見えた。風丸の喉がごくりと鳴る。緊張で口内がからからに乾いていた。


「おばあちゃん、あいつが見えてたの……?」


震える声で尋ねると、祖母はしっかりと頷く。目の前がくらりと揺れた。


「もちろんよ。おまえが一番わたしに似たようだったからずっと心配だったの。でもあの子が来てからは一郎太もすごく楽しそうで、前よりもっと明るくなったでしょう。良かったと思っていたのだけど……そう、やっぱり消えてしまったのねえ」


哀しそうな祖母の声に、風丸は一つだけ頷いた。喉が締め付けられるような痛みを訴えだし、両目に熱を感じる。とてもなにかを言えるような状態ではなかった。

嬉しかった。けれど悲しかった。

幽霊の望を認識していたのも、時間を共有できたのも風丸だけだ。風丸だけが望の存在を知っていた。だから望がいなくなっても、風丸の周囲も日常も変わりはしない。それがどれだけの恐怖と苦痛だったか、風丸は忘れていない。そして望が確かに風丸の隣にいた事が証明されて、あの日々が幻なんかではないことがわかって、本当にほんとうに、言葉に出来ないほど嬉しかったのだ。

けれどそれは、望がいなくなったことをより深く風丸に思い知らせる。今までは現実味が伴わずに済んだそれを、こうして誰かが口にすることで本物の傷口に変えてしまうのだ。

ぽっかりと空いてしまった底の知れない穴を埋める方法を風丸は知らない。

望がいない。

たったそれだけのことなのに、風丸にとってはなにもかもを変えてしまうことだった。壮絶な喪失感、と一言で言い表すのはとても簡単なことだ。けれど、風丸の心臓は痛みのおかげでどうにかなってしまったかのように激しく鼓動を打ち鳴らしている。苦しくて苦しくて、叶うならば全てを吐き出してしまいたかった。


「黙って、いくのは、だめだと言ったのに、」


白猫を見下ろしていた望の横顔が浮かぶ。いつから望は自分が消えることを知っていたのだろう。あるいは、風丸に愛想をつかして出て行っただけなのか。

なにもかもがわからない。答えをくれる幽霊は消えてしまって、風丸の傍らには誰もいない。白いワンピースも、麦わら帽も、少し色の悪い顔も。もうなにも残ってはいない。

望がいなくなったというのならば、いっそ風丸の中の望も消して欲しい。そう思ったのに、望のたったひとつの『I love you』が消えてくれなくて、風丸はぼたぼたと涙をこぼした。身体が震えるのを抑えることも出来ない。

嗚咽を漏らして泣き始めた風丸の頭を祖母は優しく撫でた。


「俺は、永遠が欲しかったんだ」


望と一緒にいられない、そんな未来なんていらなかった。誰になんと言われようと、死者相手にと笑われようと、この言葉も想いも届かないとわかっていても、風丸は望に恋していた。

望だけを、乞うていた。


「おまえが好きだったんだ、望、」