ソロモン・グランディの嘘 | ナノ





 
「なあ、木野」という、たったそれだけの一言をかけるのに風丸は相当な気力を必要とした。顔をあげた木野は、風丸の深刻そうな表情を見てぎょっと目を見張る。


「ど、どうしたの?」
「相談があるんだが、ここだとちょっと……」


言いながら、風丸は教室を見渡す。全ての授業が終了していまは担任を待っているだけの空き時間だ。クラスメートは幾つかの固まりとなって散らばっているが、それでも人の目や耳がある。風丸が申し訳なさそうな顔で「廊下でもいいか」と聞くと、木野は快く頷いて後に続いた。

目立たない廊下の隅まで行くと風丸はようやくそこで立ち止まる。流石に暖房の効いた教室を出てわざわざ寒い所で過ごそうとする人はいないのか、廊下の人影は疎らにしかない。二人のそばを足早に通り過ぎていく数人のグループを見送ると、風丸はようやく重たい口を開いた。


「実は、その……」
「う、うん」


珍しく言いよどむ風丸に木野は表情をかたくして真剣に頷く。きっと真剣な話なのだろう、と木野は思ったからそうしたのだが、風丸はそれを見て迷うように視線を逸らした。

そして「真面目な話ではないんだ」と言い辛そうに前置きを置くと、ぽつりぽつりと話し出す。木野はそれを黙って聞いていたが、風丸の話が進むにつれて彼女の頬は緩みだし、終わる頃には笑みすら浮かべていた。


「……木野。頼むから、にやにやしないでくれないか」
「ご、ごめんなさい! でもまさか、風丸くんからそんな相談されるなんて思ってなかったから……!」


再度「ごめんね」と謝りつつも、木野の頬は緩んだままだった。風丸は憮然とした表情でそんな木野を見ていたが、その頬には僅かな赤色が差している。ますますにやけてしまいそうな頬を咳払いで誤魔化すと、木野はようやくそれらしい顔つきになった。


「でも、その子と風丸くんは付き合ってるの? あの、もしも答えたくなかったら言わなくてもいいんだけど……」


それでも木野は聞きたそうに見えた。窺うような視線に好奇の色を感じながらも、「付き合ってはないけど」と眉を寄せて答える。木野は、そうなの、と軽く頷いたが表情は僅かに残念そうだった。


「それなら、デートにはきちんと力を入れないとね! 女の子はロマンチックなこととか楽しいことが好きだし、二人で盛り上がれるような所にたくさん出かけてみるのもいいと思うわ」

「で、デート……?!」


風丸の声が裏返った。口をぱくぱくと開閉して、不思議そうに首を傾げた木野を大きく見開いたオレンジの両目で見つめている。
「なあに、どうしたの?」と木野が声をかけると、風丸はすぐに我に返って叫んだ。


「で、デートなんかじゃない!」
「え? だって、クリスマスに女の子と二人きりで出かけたいんでしょう?」
「そ、そうだけど……!」
「それならやっぱりデートだと思うけど……。もしかして、小さな女の子だった?」
「いや、木野よりいくつか年上……」


答えながら、風丸の頭はぐるぐると混乱しはじめていた。そもそも風丸が木野に相談しようと思ったのは、母親に「今年のクリスマスは花火大会のあの子とデートしないの?」と揶揄混じりにからかわれたせいだ。

幸いその場に望はいなかったので面倒なことにはならなかったが、母親の言う「あの子」とはどう考えても望のことだ。それを言われてから、風丸の頭は何故か望と一緒にクリスマスを過ごすことばかり考えてしまっている。望は元来祭り好きの側面があるので、風丸が誘えば断ることはまずないだろう。

そこまで考えて、「いやこれはこういうイベント事を望が好きだからで、だから別に俺が望と過ごしたいわけじゃ、ああでも喜ぶだろうな……望の笑顔……。あ、いやだから(以下略」と散々悩んで言い訳をした末に木野に相談を持ちかけたのだ。


「あ、あくまで望が好きそうだからで、だから別にデートなんかじゃ……」


いったい誰に対してなのか、風丸はまた言い訳を始めたがその頬は先ほどよりも余程赤くなっている。それを微笑ましそうに見つめながらも木野は、


「だから、それは デ ー ト だから、ね?」


と強い口調で言い切った。風丸は容赦なく逃げ道を塞がれて悄然と肩を落とす。木野はそれすら「そんなことはどうでもいいんだけど」と切り捨てた。


「クリスマスにどこかに出かけるんだったら、やっぱり駅前がいいと思うな。大きなクリスマスツリーもあるし、商店街もイルミネーションでそこら中キラキラしてるし、とってもロマンチックだと思う!」


言いながら想像したのか、木野はふふ、と笑って少しだけ頬を赤らめる。風丸はなんだかむず痒いものを感じながらも、毎年設置されるツリーを思い浮かべて、いかにも望が喜びそうだと思った。

少しセコイ考えだったが、ツリーを見に行くぐらいなら中学生のお財布にも優しい。それにきっと望は、頬を赤くしながらきらきらした目でツリーを見上げるのだろう。そうして、風丸を振り返って嬉しそうに笑うのだ。それはとても胸が躍る想像だった。

そうしてみる、と頷くと木野はにっこり笑う。頑張ってね、とかけられた声にお礼の言葉を返しながら教室へ急ぎ足で向かった。

巨大ツリーにはしゃぐ夏服の幽霊、というのは中々いい構図かもしれない。そう思って、風丸はくすりと笑った。




風丸が逸る心のままに帰宅すると、お目当ての望は居間の片隅で丸くなっている白猫の隣にいた。とりあえず、と鞄と脱いだ制服を自室に放り込んで身支度をそれなりに整えると、横目で確認しただけだった居間に戻る。

望は風丸が帰ってきた時と変わらず、ぼうっとした横顔で白猫を見下ろしていた。


「望?」


風丸がそっと声をかけると、望はゆっくりと顔を上げて風丸を見る。髪と同じ色をした黒目にはなんの感情も浮かんでいないように見えたが、瞬きのあとにはいつもの微笑みが広がっていた。


「おかえり、一郎太くん」
「ああ……」


どこか静かな望に戸惑いながらも、風丸は白猫を挟んだ隣に座る。白猫は片目で風丸を確認しただけで、ひくりと耳を動かすとそれきり動かない。望も風丸の方を見る気配すらなく、ただじっと白猫を見下ろしている。


「なあ、どうかしたのか?」


困りきった風丸が訊ねると、望は一度だけ風丸を見た。しかしすぐにその視線は白猫に戻り、望の指先が白い毛皮を撫でるような動きをとる。


「どうもしないよ。ただ、猫ちゃんの話を聞いただけ」
「猫の話?」


なんだそれ、と風丸が眉を寄せると、望は困ったように笑った。


「本当かはわからないんだけど、猫はみんな死に際を人に見せないんだって。親しい人にほど、それを隠そうとするって、そう言ってたの」
「誰が?」
「一郎太くんの知らないひと」
「ふぅん……」


気のない返事をしながら、風丸はちらりと望を見た。しかし望の視線は相変わらず白猫に注がれていて、特にどんな表情も浮かんでいない。強いて言うならば、なんだか悲しがっているような気がした。風丸が白猫の首筋を撫でてやると、白猫がまた片目を開けて見上げてくる。


「おまえも年だもんな。でもさ、もしもホントに自分が死ぬことをわかるんだったらちゃんと挨拶に来いよ。黙っていなくなられるのは寂しいからな」


風丸は優しい笑みを浮かべて、白猫の頭をぐりぐりと撫でてやった。その手に頭を擦り付けるような動きをしながら、白猫が「にゃあ」と鳴く。それを見ていた望が、ふふ、と笑った。望の笑みに、理由もなく風丸の胸がざわつく。


「そうだよね。黙って消えちゃうのはダメだよね」
「当たり前だろ」


「な、それよりさ」とわざと明るく言って、風丸は落ち着かない気持ちを唾と一緒に飲みこむ。


「クリスマス、駅前にすごく大きなツリーが飾られるんだけど、どうせヒマなんだろうし一緒に見に行かないか? 商店街にもイルミネーションとか取り付けられるみたいだし、望こういうの好きだろ」


おかしな緊張のせいで望の顔を見ることが出来なかったが、どうにかいつもと変わらない口調で言い切ることができた。ほっとして胸を撫で下ろしたが、肝心の返事がこない。一秒、二秒、三秒、と過ぎていく毎に不安になって、風丸は望を振り返った。


「望?」
「……うん。すごく行きたい」


ゆっくりと、望が微笑んだ。その頬に僅かな赤い色を見つけると風丸は嬉しそうに笑う。


「じゃあ、約束したからな!」
「うん」


無邪気に笑う風丸の隣で、なまえはじっと白猫を見つめていた。