ソロモン・グランディの嘘 | ナノ





 
蛇口を捻って出した水が予想以上に冷たく感じられて、風丸の背筋が震えた。それでも歯を食いしばり、手の中に溜めた水を顔につける。それを二、三度繰り返してようやくタオルで顔を拭いた。

押しつけたタオルの隙間から、ふぅ、と息が漏れる。用済みになったタオルを洗濯籠に投げ入れ、洗面台の脇にぶら下がったカレンダーを見る。暦は既に11月の半ばを指していて、道理で寒いはずだと風丸は眉を寄せた。




身支度を整えて暖かい居間に顔を出すと、こたつの脇で白いふわふわが丸まっていた。風丸の顔がそれを見つけて緩む。


「今年も来たのか、おまえ」


風丸が近くに寄ってふわふわを撫でると、薄く目を開いたそれが返事をするように「にゃあ」と鳴いた。長い尻尾がぺしんとホットカーペットを叩く。


「一郎太、起きたの?」


白猫に呼ばれたように顔を出した母親に風丸は少し笑いながら頷いた。朝の挨拶をすると、母親は少し眉を寄せる。


「もう、休みだからって昼近くまで寝てることないでしょ。お昼までご飯待てる? 待てないならなにか作るけど……」
「うん、大丈夫。あと一時間くらいでしょ」
「そう。ならいいのよ」


安心したようにキッチンに引っ込んだ母親に苦笑を零すと、風丸はもう一度白い毛を撫でた。

この白猫は風丸の家で飼っているわけではない。寒くなるとふらりとやってきて、暖かくなるとふらりと去ってゆく野良猫だ。野良のくせに分別を弁えているのか、家を荒らさないし食事もねだらない。ただ温もりだけを求めているらしく、風丸が物心つく前からそうして居座っていると聞いた。

だから風丸は、この白猫が家に来ると冬の訪れを実感する。雪を連想させる見事な白い毛もその原因の一つかもしれない。それに比べて、


「望の季節感の無さったらないよなあ……」


幽霊だから仕方がないのかもしれないが、望は寒くなった今でも袖のない白いワンピースに麦わら帽子といった出で立ちだ。見ていて寒々しいことこのうえない。思い返してぶるりと身体を震わせた風丸は、そこでようやく望の姿が見えないことに気付いた。

最近、といっても秋頃からだが、望と風丸はあまり一緒にいることが無くなった。最初は学業のせいだろうと思っていたのだが、家にいる時も風丸の周りをうろちょろついて回ったりしない。風丸が呼べばどこからかやって来るのだが、あまり好ましい事とは思えなかった。

目を離した隙に、望が消えていそうで不安になるのだ。けれど、ずっと傍にいろと言うわけにもいかない。どうにもならない現状に溜息を吐くと、望を探しに風丸は暖かい居間を出た。





「望、そんなところにいたのか」
「うん? 一郎太くん、やっとお目覚め?」


「おはよう」と笑う望に同じように返しながら、風丸は望の隣にしゃがんだ。


「なんで玄関なんかにいるんだ? しかも外だし」
「えー、なんとなくだよ」


「寒いんだけど」と文句を言うと、望はくすくすおかしそうに笑う。実際、たいして着込みもしないで外に出た風丸にとってこの外気の低さには堪えるものがある。肩が震えるのでさらに身体を縮こまらせると、望は苦笑したようだった。


「だったら家の中にいればいいのに」
「おまえを探してたんだからしょうがないだろ」
「だから、わざわざ一郎太くんが探す必要ないじゃない。呼ばれたら行くんだからさ」


小首を傾げながら不思議そうに望は風丸を見上げる。不安だったから、なんて正直に言う気はさらさら無かった。吐いた息が白く変わる。


「そういう気分だったんだよ。な、家に入ってこたつで蜜柑でも食べよう」
「ええ、やだよう。だってわたし蜜柑食べれないし、それに、あの猫ちゃん……」
「猫?」


言い辛そうに眉を寄せた望に、今度は風丸が首を傾げた。あの白猫のことだろうか。それがどうして望に関係するのかがわからない。望は不安そうな顔のまま、ちらりと居間の方角に視線を向けた。


「わたしのこと、怖がるんじゃないかなあって……」
「なんで?」
「だってわたし幽霊だもん。動物はそういうのに敏感で、あんまり好きじゃないって、この間テレビでやってたし」
「……なんだそれ」
「っていうか、実際そうなの! わたしが近付くと近所の猫ちゃんたちみんな逃げちゃうし……犬も寄ってこないし……」


うう、と悲しげに呻いた望に、そういえばと風丸は記憶を思い返していた。確かに望と一緒にいたときに動物が近くに寄ってきたことは一度もなかった気がする。

けれど、あの白猫がそういうことを気にするとは思えなかった。なにしろ、冬の間だけウチに居候するぐらい胆の据わった猫だ。望が近くに寄っても頓着しないで寝ていそうだ。


「案外大丈夫だと思うけど」
「ええー……」


それでも疑わしげな望に「試してみればいいだろ」とだけ言って、風丸はさっさと居間に戻った。その後ろから慌てた様子でついてきた望が現れると、白猫は薄く両目を開けてそちらを見た。そして一度だけ尻尾を持ち上げて下ろすと、あとはそれ以上動かない。

恐る恐る幽霊が近付いて傍に座り込んでも、白猫はやはり動かなかった。やはりこの猫は神経が図太い。風丸は小さな感動さえ覚えた。


「な、言った通りだったろ」
「うん。この猫ちゃんすごいねえ……」


物珍しそうに望は丸まった白猫を見てにこにこと笑う。逃げられなかったことがよほど嬉しかったのか、望の頬は少しだけ赤くなっていた。


「ね、この子なんて名前なの? オス? メス?」
「いや、知らない」
「え?」
「だから、性別も知らないし名前も……無いんじゃないか。少なくとも俺は知らない」


「えええええ」と信じられないものを見るような目で望は風丸を見た。その声の大きさに、聞こえないとはわかっていてもついキッチンの方を気にしてしまう。


「なんで、なんで?」
「コイツ野良だし、名前なんて必要ないだろ。オスだろうがメスだろうが白猫は白猫だしな」
「わたし、時々一郎太くんがわからなくなる……」


うう、と頭を抱えるように黙り込んだ望を風丸は不思議そうな顔で見る。そんな些細なことに拘る理由がわからなかった。風丸の家ではもうずっと昔から貫かれてきたことだったので、いまさら、といった感じが強いのだ。


「おまえ、名無しなんだって。可哀そうにねえ」


つんつん、と触れないのをわかっているだろうに白猫の鼻先を望が突く。わずかに鬚をそよがした白猫が、気にするな、とでも言いたげに「にゃあ」と返事をした。