ソロモン・グランディの嘘 | ナノ





 
ジャージから制服に着替え、鞄を持つとのろのろと校門を出た。
先輩たちを待ってきちんと謝罪し、練習に参加させてもらおうかとも思ったが、それは明日にしなさいと事情を知った顧問の先生に諭されたからだ。望も同意見らしく、食い下がろうとした風丸にいい顔はしなかった。

そういう理由で、風丸はいつもよりずっと早く家路を辿っていた。けれどその足取りは普段よりも重たげで、顔色もなんとなく冴えない。夕暮れにぼんやりと浮かび上がる望が、心配そうに首を傾げた。


「一郎太くん、大丈夫?」
「ん、なにが?」
「なんか、顔色があんまり良くない気がする」


あー、と言葉を濁らせて、風丸は一拍沈黙を置く。心当たりがあるような反応だったが、結局風丸から返ってきたのは「なんでもないよ」の一言だった。


「それ、なにかあるって言ってるようなものじゃない」


不満そうに頬を膨らませた望の顔をちらっと見て、風丸は苦く笑った。それは今まで望が見たことのある、風丸のどんな表情とも異なるひどく大人びた顔だった。

思わず望が黙り込むと、風丸は前に向きなおってなんでもないような口調で言う。


「今日はあんまり身体も動かさなかったからな。そろそろ風も冷たくなってきたし、そのせいかもしれない」


「そっか」と、望は短く返した。

遊ぶように揺れる自分のワンピースの裾を両手で捕まえ、そっと離す。ひらひらゆらゆら、ひとりでにワンピースは揺れる。まるで自分の心みたい、そう思った。


「あ」


風丸の短い、それでいて驚きに満ちた声に俯かせていた顔を上げると、望は無意識の内に眉を寄せた。進行方向に立ち尽くす見覚えのある人の顔を見て、なんで、と声に出さないまま呟く。


「あ」


向こうも此方に気付いたらしく、大きな目を丸くしたかと思うと困惑したような、それでいて嬉しそうな顔をする。感情表現豊かなその顔に、望の不快感はさらに高まった。

理由なんてわからない。なにかをされた訳ではない。けれど、感情を抑えきれなくなるほどその人のことが嫌だった。

僅かな罪悪感を覚えながらも、早く通り過ぎよう、と風丸を急かす前に件の人が駆けてくる。風丸が足を止めたのを見て、望はくちびるを噛んだ。


「あの、どうも。こんにちは」


駆けてきた割に、最初に飛び出てきた言葉は普通の挨拶だった。面喰らいながら風丸も同じように返すと、照れたようにはにかんだ拍子にセミロングの金髪が方耳から零れた。夕暮れを弾く、“キラキラ”の金髪。浅黒い肌の、目の大きなとびっきり可愛い女の子。


「風丸さんですよね!」
「え、ああ、そうだけど……」


どうして名前を知ってるんだ、と風丸は不思議そうに首を傾げた。けれど望は知っている。この子が、いまと同じようにその大きな目で風丸を追いかけていたことを。


「あ、名前は少し前に部長さんに聞いたんです! 僕、宮坂って言います。よろしくお願いしますね」
「あ、うん。よろしく……?」


言われるままに挨拶をしたが、風丸は未だに状況を飲み込めていなかった。どうしていつもフェンスの向こうから此方を窺っていた“キラキラ”が目の前に立っているのか。どうしてにこやかに挨拶をされているのか。わからないまま宮坂の顔を見ていると、幼い顔は嬉しそうににこりと笑った。


「僕、今年受験生なんですよ」


唐突に切り出された話に、風丸は「はあ」と気の抜けた返事をする。宮坂は構わずに話し続けた。


「それで、ずっと進路について迷っていたんですけど、この間風丸さんが走っているのを見て……すごいなあ、って思ったんです。風みたいに素早くて、僕も出来ればあんな風に走ってみたいって」


宮坂の長い睫に縁取られた目がそっと細まって口元が穏やかな弧を描いた。それは、同性の望が見ても可愛らしい笑みだった。風丸への憧れがいっぱい詰まっていて、心の底からそう思っているのがわかる。
望がなにも言わない風丸の背中をじっと見ていると、ふいに宮坂の表情が変わった。


「だから僕、決めたんです。来年の春、あなたの隣を走るって」


「そうか」と、風丸は笑ったようだった。宮坂の真剣だった表情が崩れ、一瞬だけ嬉しそうな微笑みを浮かべる。けれどそれはすぐに元に戻った。


「あの、だから、待っててくださいね。僕、頑張ってあなたの隣に行きますから。絶対に、行きますから!」
「うん。待ってるよ」


「は、はい!」と、キラキラ光る金髪と同じくらいに眩しい目が笑った。風丸のポニーテールが風にそよぎ、金の髪も揺れている。ただ、望の黒髪だけは揺れない。その絶望感に、望はゆっくりと両目を閉じた。





宮坂と別れて、風丸と望はまた家路を辿りはじめた。嬉しそうな感情をわずかに残した横顔に望は声をかける。


「よかったね、一郎太くん」


望の声は少しだけ暗い。けれど風丸はそのことに気付かないようで、宙に浮く望を見上げるとにこりと笑った。


「ああ。おまえの言う通りになった」
「え?」
「前に言ってただろ。一郎太くんなら後輩に好かれる先輩になれる、ってやつ。ちょっと早いけど、本当にそんな風になれた」


「少し照れくさいけどな」と付け足しながらも風丸は嬉しそうだった。
ちがうの。
望の顔が強張る。


「う、ん。そうだね」
「? 望は嬉しくないのか?」
「あ、はは、そんなことないよ! でも、はじめての後輩があんなに可愛い女の子だなんて、一郎太くんも隅に置けないよねー」


大丈夫、大丈夫。望は何度も胸の中で呟いた。嫌な感情がじわりと滲み出そうになり、それを堪えるのに必死になる。そのせいで、不思議そうな顔で風丸が言ったことを、すぐに理解することは出来なかった。


「なに言ってるんだ、あいつ、男だろ」

「……へ?」


ぽかん、と小さく口を開けた望に風丸の眉が寄る。


「だから、男だって。見ればわかるだろ」
「え、え、うそ! だってあんなに可愛いじゃない!」
「可愛いって……。おまえ、幽霊でよかったな」


呆れ顔の風丸を前に、望の顔は見る見る赤くなっていく。

「うえ、あ、え、それじゃあ……」などとぶつぶつ呟いていたかと思うと、いきなり大声で「一郎太くんごめんーーーー!!!!!」と叫び出した。


「はあ?」


「いきなりなんだよ」と顔を顰めた風丸に、両目に涙を溜めた望がずいっと顔を近づけた。いつになく距離のない顔の近さに風丸は思わず顔を赤くしたが、気付かない望はそのまま話し出す。


「あの、嫌いなんて言ったの嘘だから! ぜんぶ私の勘違いっていうか、その、うまく言えないんだけど! とにかくごめんね一郎太くんっ」
「……いまいち話が繋がらないんだけど、望が怒ってたのって俺が宮坂のこと話すのを忘れてたからじゃないの?」
「う、あの、いえ……そうじゃなくて……」


ごにょごにょと語尾が消えていく望の説明を風丸は辛抱強く待った。期待に膨らんだ胸が、ドキドキと激しく鼓動を打ち鳴らす。もしも望の癇癪の理由が風丸の予想通りなのだとしたら。

その想像はどこまでも甘く、同時にわずかな痛みを伴った。


「あの、宮坂くんが、女の子だと思ってて、それで、ずっと一郎太くんを……」


見てたから。望の言葉の続きがこうだったのか、風丸にはわからない。顔を真っ赤にした望が堪え切れないと言わんばかりに叫び出し、勢いよくどこかに飛んで行ったからだ。風丸の制止すら追いつかなかった。

一人になった風丸は、ゆっくりとした足取りで家路を辿る。
その足取りは実に軽やかで、段々とペースが上がってきたかと思うとついに走り出した。冷たい風が髪を頬を身体を打ちつけるが、風丸の顔には満面の笑みが浮かんでいる。


「それって、宮坂に妬いたってことだろ!」


人目を気にせず嬉しそうに叫んだ風丸目がけ、どこからか空き缶が飛んできた。