ソロモン・グランディの嘘 | ナノ





 
それから次の日の朝まで、望は風丸の前に姿を現すことはなかった。


「……」


くあ、と先程からひっきりなしに欠伸が出るせいで、目の端に涙がにじむ。風丸は制服の袖でそれを拭うと、そっと斜め上を振り返った。こちらを見ていた望と目があう。


「どうかした?」


にこりと笑われて、風丸は咄嗟に視線を外した。
「べつに」と、そっけなく返すとなんとなく足を速める。三歩後ろの幽霊がぴたりとくっついてきていることは、勿論風丸も知っていた。





昨日の望とのやり取りが喧嘩だったのか、風丸には今もよくわからない。近所の家の塀の向こうに望が姿を消して以降、ちらりとも顔を見せなかったくせにこの気まぐれな幽霊は今朝になったら突然元通りになっていた。
寝起きの頭で呆然と望を凝視する風丸に幽霊がかけた言葉と言えば、「寝癖で頭大変なことになってるよー」だ。それもとびっきりの笑顔付きで。風丸は無言で枕をぶん投げた。

顔を洗って歯を磨いて髪を梳かして纏め上げ、制服に着替えて朝食をとる。いつもの朝のパターンを繰り返しながら、活性化してきた頭で風丸は考えた。

考えた結果、昨日のことは望のいつもの気まぐれだったと処理することにした。罪の意識まで感じながら、望のことが気になってよく眠れなかった自分の健気な心と貴重な睡眠時間を返してほしい。


そんな腹立たしさを抱えながら、風丸はなんとか放課後まで漕ぎつけた。
寝不足のあまり授業中でさえついうとうとと居眠りをしてしまうほどだったので、あまり親しくないクラスメートからも「珍しいね」と言われる始末だったが。

そういえば、望と風丸は学校にいる時は一緒にいないことが増えた。

風丸が下駄箱に着く頃には望は大抵姿を消していて、放課後になるとどこからともなくふらりと現れる。これについて不審に思った風丸が聞いてみると、望は幽霊業が中々板についてきたでしょ、と楽しそうに笑っていた。


そしてこの日も、いつもと同じだろうと風丸は思っていた。


しかし放課後になっても望が姿を現すことはなく、風丸がトラックを駆ける時にも間延びした声援は飛んでこない。休憩時間になっても、人目を気にする風丸など知らぬ顔でべらべらと話しだす幽霊はいない。あの白いワンピースも、麦わら帽子も、黒髪も、どこにもない。

そんなことは、初めてだった。





今日で何度目かの「大丈夫か」の言葉に、はっとして風丸は顔を上げた。新しく部長になった二年の先輩が心配そうに風丸の顔を覗き込んでいた。


「みんなもう行ってンぞ」


え、と慌てて振り返ると、他の部員たちが列を作って校門から外に出ていくのが見えた。いつの間にか走りこみが始まっていたのだ。風丸の顔色がさっと青くなる。


「す、すみません! 大丈夫です!」
「……あー、あのさ。集中してねえみたいだし、今日はもう帰っていいから」


頭をがりがり掻きながら、部長となった男は面倒臭そうに溜息を吐いた。その溜息が胸に突き刺さって、風丸を焦らせる。


「あのっ、本当に大丈夫ですから! やらせてください!」
「いいから帰れって。やる気のない奴がいたって邪魔なだけだし、迷惑だから」


「じゃあな」とあっさり言い残して、軽い足音と共に去っていった。遠ざかっていくその背をしばらくの間未練がましく見つめていると、おもむろに風丸は顔を両手で覆って蹲る。どうしよう、とその言葉だけがぐるぐると頭を回っていた。

望が傍にいないと不安なことに気付いたのは、そう最近のことじゃない。でもその時はまだ胸がざわつくぐらいで、なにも手につかなくなるぐらいに不安になどならなかった。

望が傍にいないことが怖い。望の姿が見えないことが怖い。望のいない日常が怖い。望がいなくても変わらない日常が、怖い。

恐怖で頭が凍りつき、身体が竦んで身動きとれない。ぬるい風に煽られた肌が粟立ち、縮こまった身体を震わせた。どうしてこんなにも怖いのか。風丸はもうとっくに、その理由を知っている。


「望」


ゆっくりと、その名を呼んだ。

白くほそい、この暗闇の中から自分を救いあげる手を請うて、祈るように呼ぶ。


「なあに、一郎太くん」


弾かれるように顔を上げた。

突然明るくなった視界の中心で、きょとんと不思議そうな顔が風丸を見下ろしていた。風もないのに踊っている白いワンピースの裾が波打ち、拍動が大きく鳴った。


「お、まえ……、なんで」
「なんでって、一郎太くんが呼んだんじゃない。みんな居ないけど、一郎太くんはお留守番でもしてるの?」


人の気も知らないでへらへらと笑う幽霊に怒鳴りつけたくなったが、風丸の口の端は力なく持ち上がっただけだった。眉が八の字になって、情けない笑い顔になる。


「……ばーか」
「なによぅ、いきなり」


口を尖らせる望に、風丸は小さく笑った。気まぐれでもなんでもいい、望がそばにいてくれることが、ひたすらに嬉しかった。