ソロモン・グランディの嘘 | ナノ





 

九月一日。

風丸はカレンダーの日付の部分に大きく×印をつけると、くしゃくしゃに丸めた八月のカレンダーを部屋の隅へと投げる。
役目を果たした紙切れは放物線を描き、屑箱の中に吸いこまれていった。


「ないっしゅー」


後ろでふよふよ漂っていた幽霊が間の抜けた声を上げる。風丸が微妙な顔で望を振り返ると、彼女は今朝から既に何度目かの溜息を吐きだした所だった。


「それさあ、いい加減にしろって」
「いいもーん、一郎太くんにはわたしの気持なんか一生わからないもーん」


ケッとそっぽまで向く望の大人げない対応に風丸はむっとした様子で口を開きかけたが、階下からの「遅刻するわよー」という声を聞き届けるとそれ以上望に構おうとはしなかった。




学校への道すがらの間にも、望はあっさりと両の手を超える数の溜息を吐いた。

数えるのも馬鹿らしく、途中から折るのを止めた指で風丸は頬を掻く。普段は陽気な幽霊をここまで憂鬱にさせる原因を風丸は知っていたが、こればかりはどうすることも出来ない。

やがて校門が見えてくると、望の口から引切り無しに漏れていた溜息が止まり、その代わりに異常なまでに周囲を警戒しだした。まるで誰かに命を狙われているかのように、しきりに周囲を見渡しては物影を鋭く睨みつけている。

風丸からすると少々大げさな気がしなくもないのだが、望にとっては文字通り生死を分けることなのだ。誰かに命を狙われているというのも、


「あながち間違いでもないんだよな」


ぽつりと呟くと同時に、望が飛びあがった。


「いやあああああああ!!!! 出たああああああああああ!!!! お願いだからこっち来ないでぇええええええええ!!!!!!」


五月蠅い。

前触れなしの全力の叫び声に思わず風丸が眉を顰めると、既に顔を色んなものでぐちゃぐちゃにした小汚い幽霊が二人の距離の限界ギリギリまで離れていく。
それをちらりと横目で見ていると「おーい風丸!」と爽やかな声が掛かった。


「久しぶりだな!」


風丸の前で立ち止まった円堂がニカリと笑う。スポーツ少年らしく日に焼けた顔に浮かんでいるのは、友人との久しぶりの再会に喜ぶ純粋な笑顔だ。

現在進行形で既に死んでいる幽霊が再び死にそうになるほどビビらせている奴の顔には到底見えない。風丸は、なんとも言えない顔で笑った。


「相変わらずお前の後光には凄まじいものがあるな」
「は? ゴコウ? いきなりなんの話だよ、風丸」
「気にしなくていいさ。久しぶりだな、円堂」


風丸の言葉にきょとんした顔を見せた円堂が、首を傾げながらもまた嬉しそうに笑う。校門に向けて円堂と並んで歩き出しながら、風丸はそっと幽霊のいる方を見た。


そして思わず、あんまりと言えばあんまりな姿の望に同情してしまった。


風丸達から結構な距離を離れているはずの望は、それでもぶるぶると震えながら恐怖に引き攣った顔で麦わら帽のつばを両手で引っ張り、両足をピンと伸ばして立ち止まろうとしている。

しかし、未だにどういう仕組みなのかわからないが二人の距離は絶対であり、風丸が歩くたびに望もそれに引きずられていた。

……決して歩いてはいない。ただ引きずられているだけだ。本人は必死に踏ん張ろうとしているのに、それがなんとも哀れだった。


ふいに風丸の視線に気づいた望が涙をいっぱいに溜めた目で縋るように見つめてくる。顔をくしゃくしゃにして泣きださないよう必死になっている望に、風丸はうっかり鼓動を鳴らした。

ちょっとイイかもしない。そんな感想が風丸の脳裏に実際に過ぎったかどうかは定かではないが、望はやはり必死だった。


「い、いちろーたくん!! やっぱムリ、今日は学校サボろう!!! 大丈夫、一郎太くんなら学校なんか行かなくてもどうにでもなるよ、うん。お家に帰ろう、で、でないとわたし死んじゃうもの!!!」


元々青白い顔をさらに青白くして、望は目をぐるぐる回しながら無茶苦茶なことを口走る。
風丸の隣では幽霊の存在なんて露ほども知らない円堂が、楽しそうな顔で夏休みに起きたことを語って聞かせてくれていた。
校門はもう目前で、まだ夏の暑さを残した風がじんわりと汗の滲んだ首筋を撫でていく。


風丸にしか聞こえない、見えない、感じられない世界。
なんともカオスな世界だなあ、と風丸は誘われるままにくすくすと笑った。


「円堂、そろそろ急がないと遅刻じゃないか?」
「え? あ、やばい! 急ぐぞ風丸!」


この夏に家族と行った海での思い出話を披露していた円堂は、風丸の腕を掴むと慌てた様子で走り出す。円堂に腕を引かれるまま、風丸も楽しげな笑顔で「おう」と頷き返した。


九月一日、新学期初日。
どこか鼓動が早まる様な響きに、風丸は心からの笑みを零す。


背後から悲痛をたっぷり含んだ「一郎太くんのばかぁあああああああああああ!!!!!」という罵声が飛んできても、風丸の笑顔は消える所か益々深まるのだった。