ソロモン・グランディの嘘 | ナノ





 
部活の引退式が終わった。それは同時に、長かった夏休みの終わりを指している。風丸は縁側に出て、ぼんやりとした様子で狭い庭を眺めていた。

風丸の家の庭は、とにかく緑で溢れている。母親の家庭菜園の趣味と、風丸が生まれる前に亡くなった祖父の盆栽のせいで草花に埋め尽くされそうなほどにだ。お陰で夏の間は虫が集まったりと嫌な面もあるのだが、その分父親が駆除に力をいれているので風丸は蚊に刺されるような心配もさほどなくぼんやりしていられる。

盆栽というのも手入れをする人間はもういないので、そんなに立派なものではない。家庭菜園に埋もれるように無造作に置かれているだけで、伸び放題の不格好なものばかりだ。特に、庭の隅に赤々と実をつけているプチトマトの隣にある松の盆栽なんかは中々笑える図だと、風丸はずっと思っている。


「一郎太くん、ただいま」


その松の盆栽の後ろから望がひょっこりと顔を出した。風丸は「おかえり」と笑う。

望がこうして出かけることはもうそんなに珍しいことではない。出かけると言っても、近所の野良ネコと遊んでいるだけだが。それに望は、必ず夕方には戻ってくる。風丸が本当は望が一人で出かけていくことを不安に思っているのをどこかで察しているのかもしれない。


「なにしてたのー?」


いいことでもあったのか、ご機嫌そうな望が風丸の隣に腰かける。ワンピースの裾から覗く素足がぶらぶらと揺れていた。その姿は、どこからどう見ても普通の女の子だ。風丸にしか見えない幽霊、ということを抜かせば。


「ん、もう夏休みも終わりなんだなあって思ったらさ」


「なんだか、この庭が見たくなったんだ」付け足すように風丸は言って、洗濯物と一緒に揺れる草花をじっと見つめた。あともう少し時間が経てば、洗濯物も、家と家を隔てるブロック塀も、隣の家の白い壁も、なにもかも区別なく夕焼けに沈んでいくのだろう。風丸は無性にそれが見たかった。

隣に座ったままの幽霊は「ふぅん」と気のない返事をして足をばたつかせる。退屈が嫌いらしい彼女には、きっと理解出来ないことだろう。風丸が沈黙を守っていると、望がにやりと笑った。


「夏休みの宿題は終わったのかい? なにやら感傷中の学生くんよぅ」
「……とっくに終わらせたよ」


風丸が呆れ顔で望を振り返ると、彼女はまた顔をにやつかせた。「なんだよ」と言えば、「いやいや、生きてるって素晴らしいなって思ってね」とふざけた返事が戻ってくる。風丸は肩を竦めた。


「ああ、望はもう死んでるからわかんないだろうなあ」
「うわ、一郎太くんも言うようになったねぇ」


けらけらと笑う彼女に暗い色は一切ない。きっと気にしているのは自分だけなのだろうと、望の顔色をそっと窺っていた風丸は苦く笑った。


そう、彼女は既に死んでいる。出会った時からもう手遅れの―……幽霊だ。


風丸の視線に気づいた望が、笑い声を引っ込めてきょとんとした表情をする。そのあどけない顔は幼い子供のようだった。


「なに、どうしたの?」
「いいや、なんでもない」


風丸は首を振ると、縁側にごろりと寝転んだ。「うわ」と望の短い悲鳴が聞こえたが風丸は頓着しない。普段ならばこんなことはしないが、いまはなんとなくそういう気分だった。

望の顔を寝転んだまま探すとすぐに見つかる。呆気にとられた顔で風丸のことを見下ろしていた。いつもと違う視点のお陰で、普段は麦わら帽の下に隠れてしまう顔もよく見える。


「望、間抜け面だな」


くすくす笑っていると、我にかえったように望が表情を変える。普段は風丸がしているような呆れ顔を浮かべていた。


「どうしちゃったのさ、一郎太くん」
「んー? いや、久しぶりにさ。こんな風に、子供の頃みたいに戻ってもいいかなって」


ひんやりとした板張りの縁側が気持ちいい。小さい頃はこの縁側や庭で、帰りの遅い両親の代わりに祖母と一緒によく遊んでいた。風丸はふとそんなことを思い出して、瞬きをする。
近づいてきた思い出たちは、またゆっくりと記憶の奥の方に帰っていった。

耳を澄ますと、散々煩く喚いていた蝉の鳴き声ももうそれほどの音量はない。あれほど強く感じていた太陽の光も暑さも、蝉と共に遠退き始めているのかもしれない。あと一月もすれば、きっと過ごしやすくなる。

ふと横を見て、望の姿を確認すると風丸はゆっくりと目を閉じた。


「寝るの? 風邪引いちゃうよ」


柔らかな声が聞こえる。風丸は「少ししたら起こしてくれ」とだけ言い残して、深く息を吐きだした。

こんな穏やかな時間が、ずっと続けばいいのに。

風丸はぼんやりと思いながら、せり上がってくる睡魔に身を委ねた。





「……一郎太くん?」


望は小さく風丸の名前を呼んだ。囁くような声に返ってくるものはない。望はそっと微笑みながら、幼い寝顔を見つめた。無防備に曝け出された寝顔を眺めるのは、本人には秘密だが初めてではない。

望は指先を伸ばして、彼の頬にかかる前髪に触れようとした。けれどそれは空を掻き、なんの感触も齎すことはない。いままでもこれからも、望が風丸に触れられることはないのだ。

望は素足をばたつかせると、暮れはじめた空に目を向ける。紫や橙が混じり合った不思議な空は、いまの望の心によく似ていた。