ソロモン・グランディの嘘 | ナノ





 
通りに面した外がざわざわと騒がしい。日は暮れたというのに、人々の喧騒と浮かれた雰囲気は逆に膨らんでいるようだ。いいや、もう夕方だからこそなのかもしれない。

風丸は窓の外を見下ろした。いつもはひっそりとしている普通の住宅街の通りが人の賑わいで混雑している。どこから掻き集めてきたのか不思議に思うくらいの人混みだ。
それがぞろぞろと一つの方向を目指しているので、その光景はさながらテレビで見た民族大移動のようである。

今からその光景に混じりにいく。

それを考えると、風丸は少し憂鬱になる。人混みが得意な人間というのはいない気がした。

浮ついた空気が家の中にまで忍び込んでいるような気がするからか、風丸は先ほどからどうも落ち着かない。空気のせいだけではない気がした。
なんなんだろう、と考えていると風丸の後ろにまわってなにやらごそごそと作業をしていた母親に背を叩かれる。たいして痛みはなかったが、考え事を吹き飛ばす威力はあった。


「さあ、出来たわよ!」
「……いいって言ったのに」


風丸が溜息を吐きだすと、母親は不満そうに息子の顔を覗き込む。母親の目は咎めるような色を浮かべていた。


「だめよ、浴衣を着れる機会なんてそうそうないんだから。今日のデートで一郎太がちゃんと和服も似合うイイ男って印象付けなきゃ!」
「だから、デートじゃないって!」
「はいはい。わかってますよ」


風丸がいくら否定しても母親は聞く耳を持たない。この不毛な遣り取りももう数えるのが面倒なくらい交わしてきたので、風丸はまた一つ溜息を吐くことで諦めた。直後に背中を叩かれたが。


「せっかくのデートの日なんだから、溜息ばかり吐くんじゃないわよ」
「だからあ、」
「誰? って聞いて答えてくれるんなら、お母さん信じてあげるけどね」


うっ、と言葉に詰まると母親がにやりと笑った。風丸はまた溜息を吐きそうになって、慌てて飲み込む。また背中を叩かれてはたまらない。


「さ、花火が始まっちゃうわ。行ってらっしゃい、一郎太」


そう、今日は河川敷の花火大会の日である。
風丸は諦めたように笑うと、こくりと頷いた。

片づけを始めた母親と別れると風丸は望を探して階段を下る。昼過ぎに見て以降、今日は顔を見ていない。今日が花火大会だというのは知っているはずだから、そろそろ戻っていてもおかしくはないのだけど。

風丸と望の距離はいつの間にか七歩以上開けて、正確な距離を測るのも難しくなっていた。それでもまだ望が一人で散歩に出られるほどではない。風丸は一先ずそのことに安心していた。

ふいにすりガラスの向こうから花火の試し打ちの低い音が聞こえて、心臓の音が突然不規則になった。きゅうっと身体の奥の方が身悶えている。

なんだろうか、しかし嫌な感じはしない。

廊下を進んだ先の玄関でふわふわ揺れる白いワンピースと麦わら帽を見つけて、風丸はようやく自分がドキドキしていたことに気付いた。落ち着かない気分だったのはそのせいかもしれない。


「望」


静かに風丸が声をかけると、ワンピースの裾を揺らめかしながら望が振り返った。


「……一郎太くん?」


笑うつもりだったのだろう。
中途半端に持ち上がった口角と、きらきらしていた目が風丸を見た途端しゃぼんが弾けるように消えた。口を小さく開いて、見開いた目が揺れている。
風丸が不思議に思って首を傾げると、望は瞬きをしてからようやく笑った。眉をきゅっと寄せて困っているような、そんな曖昧な笑い方だった。


「どうしたの、その格好」
「え? ああ、母さんが無理矢理……」


言われてみれば、いまの風丸は浴衣姿だった。
気恥かしさに頬を掻くと、望はそのままの表情で「そっかあ」とだけ言う。浴衣の感想は特にないらしい。

風丸は少しだけ拍子抜けしたが、元々なにか言ってほしかった訳ではない。そんなものだよな、女子じゃあるまいしと気を取り直すと風丸は久しぶりに三歩後ろに幽霊をつれて家を出た。

幽霊は、それから終始無言だった。





「なあ、いつまで黙ってるんだよ」


風丸が呆れ顔でやっと望にそう言えたのは、地元の人間でも限られた人しか知らない言わば穴場スポットに着いて少ししてからだった。

父親が若い頃によく利用していたというそこは、河川敷を見下ろせる恰好の場所でありながらその目立たなさから殆ど人がいないという。幸いなことに、今日は風丸と望しかいない。だから人目を憚らず話しかけることができた。


「べつにー」


望は風丸の隣に並びながら、河川敷を睨みつけるように見下ろしている。いつもの麦わら帽の下では、普段は笑みを浮かべている唇がむっつりと引き結ばれていた。理由はわからないが、機嫌が悪いらしい。

風丸がもう一度「なあ」と声をかけると望は溜息を吐いた。風丸はむっとして眉を寄せる。不機嫌な幽霊は、やがて困ったように笑った。


「わたし、ちょっと自己嫌悪中だからしばらく放っておいてくれればいいよ。一郎太くんはなんにも悪くないから、気にしないで花火楽しんでね」


風丸はとりあえず「わかった」と返事はしたが、大空に咲き始めた大輪の華をなにも考えずに楽しめるような性格ではなかった。

お互いが無言のまま、楽しみにしていたはずの花火をただぼんやりと眺めていると、望がぽつりと口火を切った。


「ごめんね、一郎太くん」


花火が打ちあがる音に紛れてしまうようなその小さな呟きに、風丸はなんとなく切なくなった。

横を向くと、望の横顔が見える。空が光るたびに色を変える人間の横顔とは違って、幽霊の横顔はいつも通り顔色が悪そうなままだ。どことなく寂しそうなその顔にも、風丸はなにもしてやれない。

望はなにを思ってこの花火を見ているんだろう。風丸はそっと自分の手を見下ろした。ぎゅっと握りしめると、力を込め過ぎたのか少しだけ痛みを感じる。風丸は初めて、どうして望は幽霊なのだろうと思った。