▼ あまいご褒美
カツン、とヒールの音を鳴らして暗い路地を進む。
月の光も星の光も分厚い雲で遮られ、薄汚れた塀の続く路地の中ではぽつりぽつりと建っている街灯だけが頼りだった。しかしその人工的な光でさえもまともに手入れされていないのか、〇〇が通り過ぎてきたほとんどの街灯は鈍い動きで明滅していた。
〇〇は化粧の上に濃い疲労を乗せた顔で憎々しげに携帯の液晶画面を睨む。
「あのクソ豚、こんど余計な仕事押し付けてきたら殺してやるんだから」
本当だったら八時には会社から上がって、今ごろは暖かい布団に包まっているはずだったのに。
しかし現実には最終の電車に飛び乗り、少しでも早く帰る為にこうして路地裏まで使っている。それもこれも、仕事が出来ない癖に踏ん反り返って面倒なことだけ押し付けてくるあの上司のせいだ。
〇〇は苛立たしげに強くヒールを打ちつけると携帯を閉じ、歩を速める。この路地を選んだまでは良かったが、遅い時間帯のせいか人とすれ違うようなこともない。街灯の届かない物影からいまにもなにかが飛び出してきそうで、多少遠回りでも明るい道を使うんだったと〇〇はいまさら後悔していた。
カツン、カツン、と音ばかりは軽快にヒールが鳴る。そしてようやく〇〇の家の近くまで辿りついた時だった。
「っ、」
なんとか声だけは出さずに済んだが、あれほど忙しく動かしていた足が完全に止まっていた。〇〇の視線は右の曲がり角に吸い込まれている。街灯の光が届かないその闇の中で、彼女の気のせいではなければ確かになにかが動いたように見えた。
〇〇が呼吸すら忘れてじぃっと見つめると、今度ははっきりともぞもぞと動くなにかがいることがわかった。変質者、という三文字が咄嗟に〇〇の頭に浮かぶ。
引き返すか、どうするか。しかし家の屋根も見えているのに。ああ、だけど変質者との出会いなんて絶対にお断りだ!
ぐるぐると思考を巡らせながら暗闇を必死に睨みつけていると、じゃり、と砂の擦れる音が聞こえた。こっちに向かってきている。そうとわかったのに、いざとなると身体が竦んで動くことが出来なかった。
近づいてくる「なにか」のぼんやりとした輪郭が浮かび上がり、それがまるで黒子のようだった。
ひ、とか細い悲鳴が唇から漏れる。足を動かそうとしても身体が強張って動かない。恐怖を感じているのに、目を見開いたまま微動だにできなかった。
そうしている間にもじゃり、じゃりと砂の擦れる音は止まらない。まず長い足が見えて次に腰、それからすぐに手と上半身と顔が現れて一人の男になった。〇〇の息が止まる。
「なにを固まっているのだよ」
街灯の光を浴びてついに露になった男の正体に〇〇の全身から一気に力が抜けた。今さらながら、心臓の音が駆け足で鳴り出す。
「……真太郎だったの」
「不審者だとでも思ったのか、姉さん」
呆れたように緑間真太郎は鼻を鳴らした。
可愛げのない弟の様子に緑間〇〇は眉を寄せたが、いつもの事と大して気にせずにその隣に並んだ。自分よりも頭一つ分以上上にある涼しげな顔を〇〇は恨みがましそうに見上げる。
「っていうか、普通びっくりするじゃない。あんなところに立ってるなんて不審者みたいよ」
「姉さんのことだから路地から帰ってくるだろうと思って待っていてやったのに、その言い草なのか」
ふぅ、と溜息を吐いて真太郎は歩き出す。釣られて〇〇も足を動かしたが、弟の意外な言葉にぎょっと目を丸くした。
「え、なに私を待ってたの? うそ、いつから」
「うそに決まっているのだよ。コンビニの帰りに姉さんの後姿が見えたから回りこんだだけだ」
テーピングされた指で眼鏡を押し上げながら真太郎はわざとらしくコンビニの袋を揺らす。ふふん、となにやら自慢げにされたが〇〇にはその意味がわからなかったので、「へー」と相槌を打つに留めた。代わりに、
「わざわざこんな夜中になに買ったの? ていうか明日あんた朝練あるんでしょ、寝なくていいの?」
食べ物だったらちゃんと私の分もあるんでしょうね、と矢継ぎ早に喋りかけると真太郎は鬱陶しそうに〇〇を見下ろした。
「姉さん、質問は一つずつするものなのだよ……。買ったのはアイスだ、そして俺が寝坊などするはずがない。ついでにそう言うと思って姉さんのも買っておいたのだよ」
「なに? ハーゲンダッツ?」
「抹茶の最中アイスだが……そうか、姉さんのは要らなかったか」
「冗談に決まってるでしょー! 真太郎さまありがとう大好きです愛してる!」幾つも年下の弟に〇〇が精一杯ヨイショすると真太郎は馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「アイス如きでよくそこまでプライドを捨てられる。まったく、安い姉なのだよ」
「うっさいわねえ。いいじゃない、抹茶最中好きなのよ!」
ふんふん、とすっかりご機嫌の様子で〇〇はヒールの音を鳴らす。真太郎からのそれ以上の返答は無かったが、元来口数の多い方ではない弟との会話ではこれがいつものことだった。沈黙の中で響く甲高い靴音ももう気にならない。
家の玄関まであと数メートルという距離に近づいた時、真太郎がふいに姉を呼んだ。
「なに?」と〇〇が不思議そうに顔をあげると自分と同じ形をした二対の目とかち合う。真太郎はいつもの無表情のまま何喰わぬ様子で、
「夜道は危険なのだよ。だからもうこんな時間に路地は使うな」
と言った。そして言うだけ言うと目と鼻の先の距離だった自宅に〇〇を置き去りにしてさっさと入ってしまう。バタン、と少し乱暴な音を立てて閉まったドアを〇〇は少しの間きょとんと見つめていたが、やがてニヤニヤと笑いだした。
抹茶の最中に夜道の忠告。素気ないように見えて、実はちゃんと私を気遣ってくれている。真太郎は普段は可愛げなんてないけど、こういう所はカワイイ弟なのだ。仕事の疲れで荒んでいた〇〇の心にその優しさがじんわりと沁みる。
「真ちゃんったら照れ屋さーん」
無性に嬉しくなって弟の友達を真似してみたら、ガチャンと鍵のかかる音がした。
――――――
「深夜の路地裏」で「出会う」「黒子」