短編(使用不可) | ナノ


▼ 深い迷宮


ざわざわと、草花が鳴く。

慈悲深き女神の聖域からそう遠くはない草原で、〇〇は一人西日に照らされ立っていた。
何をするでもなく、瞳を閉じて佇む彼女の足元一面を豊かな色彩が覆っている。太陽の温もりを含んだ風が優しく草原を撫で、〇〇の体を包み込んだ。
風に抱かれながら、彼女はたくさんの色のない声に耳朶を震わせて、やがて力なく口の端を持ち上げた。


「ロス、あまり私を困らせないでくれ」


哀しげな響きを帯びた言葉を聞き届ける相手はいない。
雨粒が大地に吸い込まれるように、〇〇の呟きは地に落ちてじわりと染みを作った。

ざわざわと、草花が鳴く。

耳奥で囁く風が第三者の来訪を教えてくれて、〇〇は僅かに苦笑した。


「……ここにいたのか、〇〇」


風が運ぶ低い青年の声に〇〇はそっと両目を開けた。


「なにか用かい、リア」


振り返らないままに彼女は答える。
橙の光に包まれて風に揺れる後ろ姿に、アイオリアの精悍な顔がくしゃりと歪んで、また険しい顔に戻った。草花を踏みつけて背を向ける〇〇の隣に並ぶと、彼は厳しい口調で問う。


「なにをしていた?」
「なにも」


男を振り仰ぐこともない彼女の視線の先には、暮れゆく橙色の空と草花のみがある。
けれど、アイオリアは知っている。


「うそだ」


斬りつけるような鋭さで、アイオリアは断罪した。子供のような舌ったらずな口調は、〇〇の胸を震わせて記憶を刺激する。


「なにが、うそなの?」


聞き返す〇〇の口調も、他愛のない少女時代のものだった。慣れ切っていた甘さを忘れた口調を見失って、脳に響く己の声に〇〇は眩暈を覚える。


「知っている、ここは墓場だ」


ざわざわと、草花が鳴る。

風が懐かしい匂いを運んできたような気がして、〇〇はそっと瞼を閉じた。ほの明るい闇の中で、太陽のように笑う男の影が見える。その男は、〇〇の隣に立つアイオリアに酷似していた。
けれど、彼がアイオリアに似ているのではない。アイオリアが彼に似ているのだ。

男の影を振り払って、〇〇は橙の光に目を焼いた。
目の前の情景がなにもかも白く弾ける。


「ここに彼は眠っていない。君も知っているはずだ、アイオリア」


ひんやりとした響きの言葉が、アイオリアの胸をざわりと乱す。
頭の中に獣に啄まれた野ざらしの骸が過ぎって、幼い日のような狂おしい激情が体を震わせる。

兄さん。アイオリアは胸の中で呼びかけた。

まだ稚かった女神を弑逆せしめようとした、大罪人のアイオロス。
その死後も、彼には墓標を立てることは許されなかった。放置された骸は変わり果てた姿で骨だけが残り、その骨すら砕かれる。体の一片すら残すことを禁じられ、粉になった彼は海にばらまかれた。

幼かったアイオリアにとって、それは持て余すほどの哀しみと憎悪、憤怒の記憶だ。

慕う兄は大逆を犯し断罪され、残されたアイオリアは蔑まれた。周りの者が次々と掌を返すなか、彼女だけはぴんと背筋を伸ばしてアイオリアの小さな手を握っていてくれた。
決して振り返らない〇〇の横顔を睨みながら、ふいにアイオリアは泣きそうになった。


「いつまであなたは、そうしているのです」


〇〇の表情や声から甘さが失われたのはいつの頃だったろう。
まだ三人揃っていて、男の隣に寄り添い微笑んでいた〇〇は誰よりも幸せな少女だったはずだ。
白い頬を薔薇色に染めて可憐な笑みを零す少女とその隣に寄り添う少年を、幼いアイオリアは憧憬と僅かな嫉妬の入り交じった瞳で見つめていたのだから。


けれどその微笑みは彼の姿と共に失われ、永久にアイオリアの前に現れることはない。

これから先も、きっと。

視線を落としたアイオリアの耳奥で、ざわざわと鳴く草花の音がした。







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