短編(使用不可) | ナノ


▼ 傘はひとつ


「あ……」


闇野くん、と小さく零したはずの呟きに彼はくるりと振り返った。その顔がどこか困ったような表情だったのは、たぶん私の気のせいじゃないはずだ。




季節柄か、お昼まではご機嫌だった天気は放課後に近づくにつれてぐずついて、授業が終わる頃にはざあざあと大ぶりな雨を降らしていた。
昨日のお天気予報では久しぶりの快晴と言っていたのだけど、これでは大外れもいいところだ。傘を持ってきていなかった人たちはずいぶん濡れるだろうな、と慌てる友人たちを尻目に暢気に考えていた。そういう私はと言えば、鞄の中にはいつでも折り畳み傘がある。慌てる友人たちには悪いけれど、やっと使い所が来てくれたようでうれしい。


司書の先生と別れると、校舎を穿つように叩く雨音に耳を澄ましながら図書室を出て玄関に向かう。
本当なら今日は図書委員のお仕事があったのだけど、あいにくこんなお天気だ。雨の日に図書室を利用する人なんてほとんどいなくて、三十分もしない内に帰宅の許可が出た。

歩きながらがさごそと鞄を漁ると、すぐに目的のものが指先に触れた。引っ張り出すと、少し前に買った薄いピンクに白の水玉模様の傘が出てくる。縁の控えめなフリルを気に入って、思いきって買ったものだ。
これをやっと使えるんだと思うとわくわくしてきて、頬が緩んでくる。

思わず持ち上がる口角をどうにか堪えて、雨雲のせいで薄暗く人通りのない廊下を早足で歩いていく。その時ふいに窓から誰もいないグラウンドが見えて、隣席の主の顔が過ぎった。

そういえば今日はさよならを言ってないな。部活は休みだって言ってたけど、闇野くんは濡れずに帰れたんだろうか。

ぼんやりと考え事をしながら玄関に辿りつくと、思い浮かべていた人がいたものだから驚いてしまった。


そうして、冒頭に戻るわけだけど。


「××か……」
「うん。闇野くん、まだ残ってたんだね。部活もないって言ってたし、もう帰ったんだと思ってた」
「ああ、そのつもりだったんだが……」


闇野くんの視線がちらっと私が握っているものに注がれているのを感じて、納得した。


「傘、ないの?」
「……いつもなら、置き傘をしてあるんだが」


そこまで言って弱弱しく溜息を吐きだした闇野くんの顔がより一層困ったようになった気がして、私もなんとも言えず頬を掻いた。


「あー、パクられちゃったんだ……。でも、この雨じゃ傘無しはキツイよね」


ちら、と玄関の向こうを見ると豪雨のせいで少し先の校門も見えないほどだった。バケツをひっくり返したような雨って、きっとこういうことを言うんだろう。闇野くんもうんざりした顔で降りしきる雨を見ていた。


「だが、この分じゃ暫くは止まないだろう……。なるべくなら避けたかったが、走れば……まだ、」


本当に最後の手段なのだろう、闇野くんは視線を宙に浮かせたまま言いよどむ。

けれどそれは本当に最後の最後の手段にするべきで、一番避けなくちゃいけないことだ。こんな雨の中を走って帰るなんて、闇野くんの家がどこかなんて知らないけど止めざるを得ない。それに闇野くんは、サッカー部にとっても大事な戦力なんじゃないだろうか。試合が近い、と言っていたことを思い出して私は急いで首を振った。


「ダメだよ、そんなことしたら風邪引く!」
「しかし、」


闇野くんは眉を寄せる。ほかにどうしろと、と表情で語っていた。うっ、と言葉に詰まると闇野くんの表情がますます曇った。

止めたはいいけど、私にも具体的な案があるわけじゃない。
ううん、と唸りながらなんとなく視線を下げると水玉模様の傘が目に飛び込んできた。そうだ、と声を弾ませると闇野くんが不思議そうな顔をする。


「闇野くん、一緒にかえろ!」





****

「……濡れていないか?」
「う、うん。大丈夫……」


僅かに土臭さを感じる湿った空気をすんと吸い込んだ鼻が冷たくなった。傘には大粒の雨が鉄砲弾のような勢いで当たって、ばらばらと砕けていく。

そんな激しい音よりも、雨独特の土臭いにおいよりも、肩に僅かに触れる温もりの方がいまの私には一大事だった。


「××?」
「は、はい! なんですか闇野くん!」
「……いや、なんでもない」


私の上擦った声に、闇野くんはなんともいえない顔になる。でも正直、それどころじゃない。

背丈の問題で闇野くんが傘を握っていてくれているのだけど、その闇野くんの顔が、身体が、これ以上ないほど近くて見慣れない距離に心臓の鼓動が速まる。

今更だけど、もしかしなくても私は大変なことを言いだしてしまったんじゃ……。
うあああ、顔赤くなってたらどうしよう。それに誰かに見られてたら?
ああああ……とにかく恥ずかしい!

内心で情けない悲鳴をあげながら隣を見上げると、闇野くんは無表情のままだった。どうやら、意識しているのは私だけらしい。
それはそれでむっとするような気もしたけど、隣に冷静な人がいると私の心臓も徐々に落ち着いていった。

そうだ、べつに意識することはない。私と闇野くんはただのクラスメートで、困っていた闇野くんを助けてあげただけだ。

ふぅ、と息を吐くと闇野くんの目と目があった。


「……落ち着いたか?」
「うっ、お蔭さまで……」


どうやらお見通しだったらしい。
ごまかすようにへらりと笑うと、それならいい、と闇野くんが薄く笑った。
持ち上がった口角と細まった目がどこか楽しそうで、珍しい笑顔に私の頬は勝手に熱を持ち始めてしまう。闇野くんは整った顔をしているから、ふいに笑顔を見せられると過剰反応してしまうのだ。
また意識してしまう前に、と慌てて話題を捻り出す。


「あー、えっと、闇野くん?」
「なんだ?」
「この間言っていた、いつもありがとうってどういう意味?」


少しだけ引っ掛かっていた言葉の意味を尋ねると、闇野くんは少しの間黙り込んだ。

そんなに言いづらいことなんだろうか?

不思議に思って見上げていると闇野くんの眉が寄った。視線がうろうろと宙をさ迷う。元々あまり人と目を合わせない人だから、こういうことは珍しくもないんだけどどこか困っているようにも見えた。


「闇野くん?」
「ああ、いや……。たいしたことじゃないんだが、それでも聞きたいか?」


期待と怖さが半々くらいで、それでもこくりと頷くと闇野くんは前を向いたままぽつぽつと話し始めた。


「週番の担当のこともそうだが、××は頼まれる前にクラスのことをやってくれているだろう。メダカの世話や鉢植えのチューリップ、毎朝水を取り替えてくれてる一輪挿しの花。自分のだけじゃなくて、サボってる奴の分まで」
「……な、なんで、」


口がぱくぱくと開閉する。

た、確かにそうなんだけど。
どうしてそんなこと闇野くんが知っているんだろう。むしろ誰も知っているはずないとすら思っていたのに……。

顔がボンッと赤くなって、だから闇野くんはあんなに言いづらそうだったのかと納得した。
これはお互い恥ずかしい。
熱を悟られないよう、頬を両手で隠すと闇野くんの声が急に小さくなった。


「それに、オレにも……」
「え?」
「……いや。だから、いろいろとありがとうと言いたかったんだ。××は、優しい奴だ」


闇野くんの穏やかな声に、もう我慢が出来なくなった。
いまなら恥ずかしさで死ねる。首を猛然と左右にふると、闇野くんが驚いたような声で私の名前を呼んだ。


「いやいやいや、そんなことないよ! 本当に! 私が勝手に気にして勝手にやってるだけだもん、むしろお節介なんだと思うし……!」
「いや、そんなことはない。そのお節介な××のお陰で、実際にオレもクラスの奴らも助かっている」


真顔で言われてしまっては、なにも言い返せなくなる。反則だよ、と呟くと闇野くんが不思議そうに首を傾げた。


「××?」
「もういいの、気にしないで……」
「? わかった」


闇野くんは、もしかしなくてもきっと天然だ。
無言のままとぼとぼと歩いているとしばらくして曲がり角に差し掛かって、すぐにその先の我が家を発見した。


「闇野くん、私の家すぐそこなの。傘は学校で帰してくれればいいから、それじゃあまた明日ね!」


前を向いたままの横顔に言葉だけ投げかけて、私は雨の中に踊り出た。引き止める声が聞こえた気がしたけど、振り返らないで走る。
これ以上恥ずかしい言葉をもらったら、私がどうにかなりそうだ。ただでさえ心臓がうるさいのに。

薄いピンクの水玉の傘、それもフリル付き。それを彼に預けたまま別れたのは、私のちょっとした意趣返しだ。これぐらいかわいらしいものだろう。
冷たい雨粒のせいであちこち濡れて気持ち悪いはずなのに顔がにやけだす。

明日、いったいどんな顔でどんな文句を言われるんだろう?

明らかに女物のかわいらしい傘を一人でさしながら家に帰る闇野くんを想像して、人気がないことをいいことに笑い声をあげた。






[ back to top ]



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -