▼ ループの終わり
握るだけになっていたシャーペンを、日誌の上で転がした。
窓から射しこむオレンジの光に濡れたページを、上から順に指でなぞっていく。
日付、天気、名前、授業。今日の報告の欄だけが、埋まっていない。
「……困ったなぁ」
なにを書けばいいのかわからない。
今日の報告といっても、自分の好きな事を自由に書き込めばいいと先生から言われていた。
実際に前の週の担当の子や、その前の子たちは「試験勉強やってない!どうしよう〜」とか、「寝坊したせいで朝ご飯抜き……腹減って死にそうだった!」とか、色ペンや顔文字を使って好きなように書いている。
でも私は、自分のことをそんな風に書けない。小さい頃から、自分のことを書いたり話したりするのが苦手だった。
幾ら考えても当たり障りのない言葉しか浮かばなくて、けれどもそれを書きこむ気にはならなかった。昨日や一昨日はクラスで育てているメダカの話や、前にみんなで植えたチューリップの話なんかを捻り出して書いた。けれどそれももうネタ切れで。
自分の融通のきかない真面目な性格が嫌になるのは、こういう時だ。
ふいに壁に掛けられた時計を見ると、掃除当番の最後の子が教室を出ていってから結構な時間が経っていた。いくらなんでも、悩み過ぎだ。自然と溜息が零れる。
黒板の端には、白いチョークで明日の日付が書かれていた。日付の下には週番と書かれている。さらにその下には私の苗字と、闇野という字が仲良く並んでいた。
「闇野くん、か」
小さく呟いて、隣の空席を見る。
空っぽの席の持ち主は闇野カゲトくんと言った。
黒板に書かれている通り、闇野くんは私と同じように今週の当番だ。でも彼はサッカー部に所属していて、放課後は残れないから移動教室の時に使うカギの管理の担当だけしてもらっている。日誌や最後の点検は、必然的に私の担当となった。
そのことに不満はない。二人で決めたことだし、なによりうちのサッカー部は日本一になったり、最近では宇宙人をやっつけたり雷門中の中でも活躍目覚しい。そんなすごい部活で頑張っていくのは、きっと大変だと思うから。
でも私は、「部活頑張ってね」の一言も言えていない。
それだけじゃない。
彼が転校してきてから私はずっと闇野くんの隣の席なのに、事務的なこと以外で話したことがなかった。私は普段から男の子と仲良く話せるようなタイプじゃないから、闇野くんのなんとなく近寄りがたいオーラは余計に緊張してしまう。せっかく隣なのに、と残念にも思うけど、正直に言えばいままでみたいな会話が精一杯だ。
だから私は闇野くんをよく知らない。たぶんそれは、闇野くんの方も同じ。
でもいまはそれより、この日誌の方が大事だ。きっと先生も待っているだろうし、私もはやく帰りたい。今日はたしかお母さんが遅くなるから、晩御飯の用意もしなきゃならないし。
よし、と転がしたままだったシャーペンを握り直したところで、ガララララ、と音をたてて教室の扉が開いた。つられて顔をあげると、さっきまで私の頭の中を支配していた人が立っている。
びっくりして思わず、闇野くん、と小さく呟くと彼はぴくりと無表情を動かした−……ように見えた。でもたぶん、私の気のせいだろう。彼が近づいて来たときにはいつもと同じ無表情だったから。
「……××、まだ残っていたのか」
「う、うん。闇野くんは、その、部活?」
彼が着ているユニフォームをちら、と見る。胸の辺りが少し汚れていて、そこから微かに土の匂いがした。私とは無縁の、青春の匂い。私はあんまり運動ができる方じゃないから羨ましいなあ、と思っていると彼はこくりと頷いた。やっぱり。
「……日誌、か?」
「え、あ、う、うん! そうなの、まだ終わってなくて……」
続けて話し掛けられなんて思ってなかったから、さっき以上にわたわたしてしまった。恥ずかしい。
熱を持ってしまった頬を隠そうと軽く俯くとふぅん、と関心の薄そうな相槌が返ってくる。
私の視界には書きかけの日誌だけで、闇野くんがどんな顔をしているかまではわからない。それが、なんだかすごく気まずかった。
制服のスカートがシワになるのも構わずにぎりしめて、どうにか話題を搾り出そうとする。焦る頭で考えて、ようやく言葉を続けた。
「その、闇野くんはなにしに? 部活中だったんだよね、たぶん」
「ああ。数学のプリントを取りに来たんだ。ついでに、」
淡々と続いていた彼の言葉がふいに途切れる。じゃあ早く部活に戻った方がいいんじゃないかな、と続けるはずだった私の言葉も口にする前に消えてしまった。
恐る恐る顔をあげると、闇野くんはじっと日誌を見下ろしている。
「書かないのか、それ」
闇野くんの視線の先には、なにも書かれていない今日の報告の欄がある。
「……書かない、っていうか、その、書けなくて、」
ごにょごにょと返答すると、闇野くんは黙り込んでしまった。絶対に、呆れられてる。
こんなことも要領よくできないなんて、普通ありえないのはよくわかってる。ネタがないなら嘘でもいいはずなのに、私にはそれすらできない。
悲しいのか恥ずかしいのか、とにかく胸がぎゅうっと塞がって、唇を噛んで俯いた。その私の脇を、闇野くんは通り過ぎる。すぐにがさがさとなにかを漁るような音が聞こえた。
忘れたらしい数学のプリントを探しているんだろう。私になんか興味がなくなったということだ。
そう気付いた途端、なぜか胸の奥がじくりと痛んで日誌の文字がにじみだした。
これで正しいはずなのに、私はどこかで手助けを期待していたのかもしれない。こんなに簡単な仕事に助けが必要なんて、普通は思うはずないのに。
……闇野くんが出ていったら、もうなんでもいいからさっさと日誌を書いて提出しよう。
それができないからずっと困っていたというのに、懲りもせずにそんなことを考えているといつの間にかがさがさという音は止んでいた。無音になった教室の中からきゅっ、とリノリウムの床と上履きが擦れる音だけが聞こえる。ああ、よかった。やっと出ていってくれる、そう思った瞬間目の前から日誌が消えた。
「え、」
「シャーペン借りる」
「は、」
上から降ってきた静かな声に呆然と顔を上げると、彼は私のシャーペンを使ってすらすらとなにかを日誌に書き込んでいく。
立ちながら書くなんてずいぶん器用だな、なんてぼんやり思っていると少ししてぱたんと日誌が閉じられた。どうやら、書き終わったらしい。
「これ、担任に届ければいいんだよな」
「う、うん。でもまだ、今日の報告……」
「代わりに書いておいた。それじゃあ、オレもう行くから」
闇野くんはそう言ってなんでもない顔で日誌とプリントを持って出ていこうとした。けれど私は咄嗟に、
「待って!」
引き止めてしまっていた。
顔だけ振り返った闇野くんは、続きを促すように首を傾げる。でも反射的に引き止めてしまっただけで、なにも考えてなんかない。う、あ、と意味のない音ばかりを繰り返した。
「……××?」
「あ、あの! 部活、頑張って!」
ようやく捻り出したのはお礼の言葉でもなんでもない。混乱してテンパって、おろおろするだけの私に闇野くんは。
「……ああ。××も、いつもありがとう」
いつもはきつく結ばれている唇が、微かに緩んでいた。笑みと呼ぶにはずいぶん大人しかったけど、それが初めて見た闇野くんの笑顔だった。ドクリ、と心臓が跳ねたような気がした。
「い、つも? 私、なにかしたっけ、」
「自覚がないならいい。ただ言いたかっただけだ、ずっと。……それじゃあ、もう行く。気をつけて帰れよ」
「あ、うん。バイバイ……闇野くん」
去っていく背中に手を振って見送ると、なんだか寂しいような気分になってしまった。けど、それ以上に嬉しくって、自然と頬が緩んでしまう。どうしよう、嬉しい。闇野くんと話せた、応援できた。たったそれだけで、いろんな恥ずかしいところを見せてしまったのに忘れることができた。
次の日、朝一番で取りに行った日誌に少し窮屈そうな字で書いてあった言葉は、さらに私をにやけさせた。
『××とやっと話すことができた。……これからも、時々でいいから話してくれるとうれしい。』