▼ ゼロを刻む
意識がゆっくりと浮上して、僕はぼんやりと瞬きをした。
暗い。
薄暗くてなにも見えず、とりあえずいま何時だろうかといつも顔の横に置いている携帯を探す。けれどあの固い感触はどこにもなくて、僕は溜息を吐き出した。
「今日、朝練あったっけ……」
朝練があるなら、5時には起きないといけない。
眠りたいと訴える体を無視して、無理矢理体を起こす。その時なにかに違和感を覚えたけど、僕は眠気のせいにした。
携帯か時計を求めて、暗闇に慣れない目をうろうろさ迷わせる。頭がぼうっとするのは、まだ寝ぼけているからだろう。
そしてようやく求めていた数字を見つけて、……一気に眠気が吹っ飛んだ。
「5時30分?!」
どうしよう、朝練!
とりあえず着替えようとベッドから起き上がって、床に投げ捨てているウェアを掴もうとした。
けれど僕の手は空を切り、暖かくも冷たくもない床に指先が触れるだけだ。
「……ああ、そっか。朝練、あるはずないんだった」
姿勢を戻して、僕は自分が眠っていたソファに深く腰掛けた。ふかふかのクッションが僕を包み込んで、ゆっくりと沈み込む。
一度瞬きをして周りを見渡すと、昨日のまま、相変わらずのがらんとしたリビングの光景だった。
ここが昨日からの、僕の家。
は、と乾いた笑いが零れる。
あの封筒の下にあった書類には、ふざけた内容の手紙と違ってタイピングされた文字が事務的に並んでいた。紙の質が少し落ちていたような気がするが、あの無理矢理日本語に翻訳したような意味不明の文章ではない、理路整然とした少しカンに障る書き方でこれからの僕の扱いが書かれていた。
いわく、毎月指定された口座に生活費として五十万ずつ振り込まれること、ここの家賃や光熱費はあちらが支払うこと、“僕”の希望通り雷門中学校に通うこと、制服や生徒手帳は編入までに学校に受け取りに行くこと。
一体だれがいつ、そんなことを願ったというんだろう。読み終わった直後は色々なことが衝撃的で、なにに対して怒ればいいのか、苛立てばいいのかがわからなくなっていた。
「神様だって? いったいなんの権利があって……」
唇を噛み締めると、僕は膝を抱えてうずくまった。足と腹の間に頭を挟むようにして、目を閉じる。
すべてが夢なら、どんなによかったんだろう。
頬を伝った涙に、僕はまだ眠いからだと理由をつけた。
****
昨日入りそびれた風呂に入って、僕は家捜しの際に見つけたジャージに着替える。やっぱりサイズはピッタリで、誰がこれらを用意したのかとかはもう考えないようにした。
ここは僕の家で、ここにあるものは僕の物。
……それだけで、いい。
「よし、と」
玄関にあった運動靴を履くと、上着のポケットにねじこんだ通帳と鍵(1番最初の部屋に無造作に置いてあった)、それからここらへんの地図が書かれた書類の一部を確認した。
落としたりしないように、とポケットについているチャックをあげる。そして軽く準備運動をして体をほぐすと、そっと玄関の扉を押し開けた。
本当ならまだゆっくりしていたかったのだけど、冷蔵庫の惨状を見てしまったら仕方ない。
水のペットボトルが三本と、カロリーメイトが二個しか入っていなかったのだ。成長期に逆戻りした僕の胃袋がそんなもので満足するはずない。
朝食の確保とついでに地理の把握。それから、トレーニングの癖。
どこにいても僕は僕なんだな、とそんなところで確認できたのがなんだかおかしかった。