▼ 小さな違和感
雷門が、染岡くんの活躍で二点先取するまでは順調だった。
けれど相手方の監督の形相が変わり、尾刈斗中の選手たちに激しく叱責した途端なにかが変わったのだ。それまで此方が拍子抜けするほど静かだった尾刈斗中の空気ががらりと変わり、隊列を組みだす。
不審に思いながら向かってくる相手とボールを観察していると、一瞬にしてその選手たちが入れ替わった。
「は、?」
思わず瞬きをすると、その僅かな間にも隊列を組んで突っ込んでくる尾刈斗中の選手たちが入れ替わっている。理解出来ない、というよりそもそもしたくない状況に声もなく固まっていると、一郎太くんから厳しい指示の声が飛んでくる。
「邦晶、なにしてる! 10番のマークに付けっ」
「あ、あ」
気を抜くと頭を抱え込んで項垂れたくなる自分をどうにかこうにか抑えこみ、言われた通りに10番の正面に走り寄る。狼を連想させる彼の顔を見て、それが先程円堂のゴットハンドでシュートを止められていた人だと気付いた。視線の先で、10番が嫌な風に笑った、
「はい?」
と思ったら、僕の目の前には何故か半田がいた。
結局、ゴーストロックとかいう名前のよくわからない現象のお陰で攻めてくる相手にもロクに反応出来ず、前半が終わる頃には三点を返されていた。
部室に集合した皆の顔色は悪く、どれも強張っている。
「おおおお俺、怖いっス!! 俺これ以上怖くて無理っス!!!」
相手の得体の知れなさに巨体を震わせる壁山を一郎太くんと宍戸が宥めにかかったけど、彼の「じゃあ、どうして足が動かなくなったんすか!」という問いには答えることができなかった。
円堂もそれは同じなようで(というより、僕を含めて誰もがわからないままだ)、険しい顔をして考え込んでいたかと思うと、急に何かに気付いたようにぱっと顔を上げる。
「そういえば、あの監督が呟きだしてからだよな。尾刈斗中が変な動きをしだしたのって……」
円堂の言葉に、確かに、と思って頷く。あの監督が人が変わったように豹変した後、ぶつぶつと何事か呟いていたのは確かだ。声援とは全く違うのに、変に耳に残るというか、嫌な感じだったのでよく覚えている。
「じゃああの呪文に秘密が?」
「どうだろうな。答えは試合中に見つけるしかないさ」
訝しげな様子の木野さんに円堂はそう返すと、未だに不安そうな顔をしたままの皆に「とにかく!」と声を張り上げて、明るく笑った。
「ボールを取ったらすぐにFWに回して、シュートチャンスを作るんだ。まだまだ一点差! 必ず逆転しようぜ!」
円堂の前向きな言葉に引っ張られるように、おう、とそれぞれが力強く頷いて気を引き締める。けれどその中で一人、豪炎寺だけはロッカーにもたれたまま特に動きを見せないでいた。
彼はなにかに気付いたのだろうか?
気にはなったが、声をかけるような真似はしなかった。一気に闘志を見せ瞳を輝かせる仲間のなかにいながら、僕は豪炎寺と同じように、けれども確実に異なる心境のせいで混じることが出来ないでいた。
ひやりとしたなにかが滲んで、腹の底に重く沈んでいく。
「井端、後半も期待してるぜ!」
ふいにかけられた声に顔を上げると「なに辛気くさい顔してんだよ」と、いつの間にか目の前にいた一郎太くんに笑われた。あは、と誤魔化すように口の端を持ち上げ、笑みを模る。
「任せてよ、FWの二人にもどんどんパス繋げるからさ」
「当たり前だろ。前半みたいにとにかく俺にボール回せよ、井端」
「んー……まあ状況を見て回すから、そう焦らないでよ染岡くん。なんにしても、あのよくわからない現象をどうにかすることが先決だしね」
相変わらず豪炎寺を強く意識している染岡くんの言葉に返しつつ、木野さんにせっつかれて部室の外に出る。ハーフタイムも終わりを迎え、いよいよ後半戦だ。
それなのに。
ふいに見上げた先の空は、一雨きそうなほど重く暗い雲が覆っていた。その様子がおかしなことにいまの僕を正しく表しているかのようで、少しだけ笑いが漏れる。
「……井端、どうした」
呼ばれた名前に視線を戻すと、僕の隣に影野が立っていた。「なんでもないよ」と笑いながら首を振り、少し先で僕らを振り返って待っていた円堂たちの方へ向かう。
「あれだけ切望して、求めていたものだったのにね」
ごくごく小さな声で呟いた言葉は聞き届けてくれるような相手すら持たず、風に乗って儚く散った。
試合が再開すると、明らかに豪炎寺がなにか考えを持っていることがわかった。それがなにに繋がるのかまではわからなかったが、仲間内に不用意な混乱をもたらす前に誰かに相談しろよ、とつい毒づかずにはいられない。
後半開始早々、染岡くんと豪炎寺の間にあった爆弾に盛大な火が点いたのだ。そのせいで試合の最中だというのに、仲間の幾人かが染岡くんと豪炎寺の派閥に分かれて口論さえしている。しかもその中に半田が紛れ込んでいる事実に思わず呻き声をあげると、傍らのマックスが苦笑した。
「井端も大変だねぇ」
「……チームのことなんだからきみにとっても他人事じゃないはずだよ、マックスくん」
「えー、僕って神経細いからああいうの苦手なんだよねぇ。だからさ、僕の為にも仲介頑張ってね邦晶クン!」
「あははなにそれ面白い冗談だね。一体全体、きみのどこが神経細いんだか教えてほしいぐらいだよ、うん、マジでマックスふざけんな」
「きゃー、こわーい!」
マックスの完全な棒読みに、遊ばれていることを自覚しながらもついイラッとしてしまう。ジト目でマックスを睨んでいると、後ろから一郎太くんの呆れたような声が飛んできた。
「そこも喧嘩してる場合じゃないだろ!」
わかってるよ、と片手を振ることでそれに応えて、ボールをキープしながらこちらに上がってくるいつかの狼少年の前に出た。
足を止め、向かい合う形になった彼にすぐ仕掛けるようなことはせず、「や」と、短い挨拶とともに笑いかける。すると彼は目を見開き、かるい驚きを表現したあとニヤリと口の端を持ち上げた。
「どーも。喧嘩はいいのかよ?」
「この試合が終わったらリベンジマッチだよ。いい加減灸を据えてやらなきゃ、ね」
ノってくれる人のようでよかった。
何気なさを装って答えながら、相手との間に保ったスペースを崩すことなく足先でちょっかいをかける。そうしながら僅かに左に重心を寄せると、右のスペースがわざとらしく空いた。狼少年もそこに一度は視線を向けたが、すぐに目線を僕に合わせてくる。彼の口元には最初の笑みが貼り付けられたままで、動き出す気配はない。
「へー、そりゃ怖ぇな。おまえの説教はくどそうだ」
「よかったらきみも聞いていく?」
「いんや。遠慮しとくぜ、俺はそういうの嫌いなんだ」
喉奥で独特な低い笑い声を零す少年に「残念」と肩を竦めると、右足で勢いよくスペースに踏み込む。突っ込む僕を見逃すはずはなく、空いた左のスペースに彼は移動した、が、すぐに足を止める。
「!?」
僕の左側にはマックスがいた。僕からのちょっかい、会話に気をとられていたのだろう。彼の死角から徐々に距離を詰めていたマックスの存在を見落としていたらしい。
慌てて動きを止めた彼だが、僕がそんなスキを見逃すはずがない。ボールと足の間に出来た僅かな空間に割入り、そのままボールをかっさらうと小林へと回した。
「ナイス、マックス」
「とーぜんでしょ」
本来なら試合中の私語は好きじゃないけど、こうもあっさりと罠にハマってくれるとすごく嬉しい。マックスを振り返ると片手を上げてきたので、僕も合わせてハイタッチを交わす。パン、と軽く打ち合った手につい笑みを零すと、「オイ」という低い声に呼ばれた。視線を向けると、口元を引きつらせた狼少年が僕らを見ている。
「おまえら、仲悪ぃんじゃねーのかよ!」
…………ふむ。
「マックス」と僕が呼びかけると、とぼけた表情の彼が「なにー?」と首を傾げた。
「僕らって、仲悪いんだっけ?」
僕の問いに、マックスの丸い黒目がぱちりと瞬く。
「そんな訳ないじゃん!」
「だ、そうです」
至極真面目な表情でマックスの返答をそのまま相手に打ち返すと、一瞬呆けたような顔になった。けれどそのあと、ただでさえ迫力のある顔が犬歯を剥き出しにした凶悪な笑顔に変わる。……思わず肩がびくついたのは内緒だ。
「……いいぜ、そういうのも嫌いじゃねぇ。井端、だったか。たいしたことねぇと思ってたが……次は潰す!」
「え、あの、いきなりそん」「俺は月村憲一だ。ぜってー忘れんなよ!」
僕の大いに戸惑いを含んだ言葉を遮った挙句、言うだけ言って彼は自陣へと駆け戻っていく。その背中に虚しく僕の手が伸びたが、もちろん捕らえられるはずもなくて。
「……なんでFWの人って無駄に熱血なんだろう……」
がっくり落ち込む僕に、マックスの爆笑だけが残った。