▼ 狂雲を呼ぶ
昨日の放課後にいったいなにがあったのか。
僕が登校すると、顔に痣を作った円堂が一郎太くんをつれて嬉しそうにすっ飛んできた。
「井端、おはよう!」
「う、うん。おはよう、円堂。なんか、やたらご機嫌だね?」
「そうなんだよ、聞いてくれ! 風丸とマックスと影野が仲間になってくれたんだ!」
「え、それって……サッカー部の助っ人ってこと?」
急な話に驚いて一郎太くんの方を見ると、苦笑しながらもこくりと頷く。円堂はまだまだ話足りないようで、興奮しながら昨日のいきさつの仔細を語ってくれた。一郎太くんも、円堂の話に補足しながら訂正してくれる。
それによると、円堂の情熱は部員たちにも影響したようで半田たちも数日後の帝国戦に向けて真面目に練習を始めたみたいだ。
助っ人の件も、やる気を取り戻した部員たちのこともよっぽど嬉しかったのだろう、円堂の顔は語り終わってもまだにこにこと緩んでいる。その隣に並んで苦笑している一郎太くんも、同じようにどこか嬉しそうだ。
なんら変わったところがない、いつもと同じ光景。
それなのに、今日は妙に胸がざわついた。さざ波のように感情が揺れて、視線が一郎太くんと円堂を飛び越えてまだだれもいない前の席へと向かいそうになる。
「よかったね、僕も安心したよ」
どの口がそれを言うんだろう?
そんな風に、糾弾する声が耳元から聞こえる。
きっと僕は、誰よりも円堂の力になれるだろう。
それだけの力を持っている自信はあるのに、それなのに僕は、素知らぬフリをして良い友人を装うことを選択する。
にこりと微笑みながら言葉を舌に乗せて吐きだすと、二人の顔がそろって顰められた。
「なんか、顔色が悪いぞ」
「井端、具合でも悪いのか?」
心配そうな顔と声に、思わず苦笑が零れる。
この二人は、こういう時に限って鋭い。
「そう? なんともないけどなあ」
いつものように笑ったつもりだったのに、ますます顔を顰められてしまった。僕はどうやら、うまく笑えてもいないらしい。
「……すまない、そこを退いてくれないか?」
僕たちの会話に割り込んできた声に肩が少しだけ跳ねた。
悪い悪い、とあっさりと僕の前から退いた円堂が振り返って、嬉しそうに声を弾ませる。
「あ、豪炎寺じゃないか! おはよう!」
「おはよう、豪炎寺。すまないな、朝から」
「ああ、いや……」
やり取りを交わす三人をただ見ていると、豪炎寺と視線が絡んだ。暗い色をした瞳が、僕の顔を映して揺れている。温度を失くした指を握り締めて、微笑んだ。
「おはよう」
少しの沈黙のあとで、ああ、と短く返答があった。反応はそれだけで、豪炎寺は自分の席に腰かけると僕らに背中を向ける。
壁を感じる態度に、しょんぼりと肩を落とす円堂とは対照的に僕は安堵していた。
これでいいんだ、そう考えているとチャイムと同時に担任が教室に入ってくる。自分の席に戻っていく一郎太くんと円堂に手を振ると、窓の外に顔を向けた。
蛍光灯を反射した窓に映った自分の世界は、ひどく色あせて見えた。
****
「なんかさ、顔色悪いね」
昼休みも終わりにさしかかって、偶然会ったマックスにそんなことを言われた。出し抜けの言葉にきょとんとすると、おかしそうに笑われる。
「なに、僕ってそんなにひどい顔してるの?」
「うん。笑顔が引き攣ってる……っていうか、凄みがでてるっていうの? まあ上手くは言えないんだけどね、たいした変化じゃないし」
「……ふぅん?」
凄味がある、なんて初めて言われた。優男っぽい、というのならよく言われたけど。
ぺた、と手で両頬を覆ってみても感触だけじゃ違いがわからない。でも今朝鏡を見たときは、いつもと変わらない幼い顔だったはずだ。
今朝も言われた言葉だけど、今朝と今の僕じゃ状況が違う。
なんなんだろう、と首を傾げるとマックスが僕を真似てか両頬を手で覆って首を傾げた。それを見て慌てて手を下げる。自分でやっておいてなんだけど、いまのポーズはない。マックスの顔も意地悪そうににやついている。
「邦晶もお年頃ってやつだし、欲求不満なんじゃないのー?」
「はあ?」
ちなみに僕らが話しているのは往来が激しい廊下の端だ。妙な方向に転がった話題に、いきなりなにを言うんだとぎょっとマックスを見るとくりくりした黒い目が僕を面白そうに見ている。何度目かわからない嫌な予感がした。
「邦晶だってモテるんだしさぁ、いま付き合ってる子とかいないの?」
「なんでいきなりそうなるの……」
意味がわからない。どうして僕の顔色の話から恋話に発展するんだろう。がっくりと肩を落とすと、黒目が意外そうに瞬く。
「え、じゃあ片思い?」
「恋なんてしてないし、ついでに彼女もいない」
「へー、そうなんだあ。意外だね。いまんとこ邦晶はフリーで、好きな子もいないのかぁ」
「? マックス、声でか、」
い、とまで言い切るつもりだったのに、最後まで言えた自信はない。
「ふ、フリーって本当ですか?!」
「あの、タイプの女性は!」
どこから湧いて出たのか、気づけば僕はやけに目をぎらつかせた女の子たちに囲まれていた。なにこれこわい。
突然の事態に硬直する僕を置いて、マックスはテキパキと女の子たちを整理して行列を作ってしまう。なんだかやけに手際がいい……って、違う!
我に返ったときには既に手遅れで、うっかりマックスの手腕に見惚れている間に僕は逃げ場を失っていた。
女の子たちのぎらついた目と、通りがかりの人たちの好奇の視線が容赦なく突き刺さる。不本意ながら見世物小屋の動物の気持が深く深くわかった瞬間だ。
「はいはーい、邦晶に質問するならちゃんと僕を通してねー。プライベートな質問になるごとに料金上がるからねー」
「なに勝手に決めてるんだよ!」
マックスが横暴過ぎる。明らかに本人の意思がないのに女の子たちもノリノリだ。なにをされるかわかったもんじゃない恐怖に全身がじっとりと冷汗で濡れる。
どうにか隙を見て逃げ出そうと、後ずさった途端腕をがしっと掴まれた。
感情の読めない黒い目が僕を振り返り、笑う。
「逃がさないよ?」
背筋に悪寒が走った。
****
ようやく女の子たちとマックスから解放されると(勿論マックスが徴収したお金は持ち主に返させたし、プライベート過ぎる質問には答えなかったけど)、残った体力をなんとか振り絞って学校を出た。
全く、今日は厄日だ。
あのあと騒ぎを聞きつけた雷門さんには叱られるし、残りの授業では先生たちやクラスメートにまでネタにされた。僕は巻き込まれただけで、全部マックスのせいだというのに。
絶対仕返してやる。
なにをしてやろうか、なんて考えながらフットサル場に入ると途端に熱気と喧騒に包まれた。
大学生や高校生ぐらいの年齢の人たちが、複数ある狭いコートのあっちこっちで試合をしている。その周りを取り囲む人たちが歓声をあげたり野次を飛ばしているせいで人の声は絶えない。
相変わらず、賑やかな場所だ。
近場のこのフットサル場を使うのは久しぶりで、相変わらずの盛況ぶりに感心していると聞き覚えのある声が飛んできた。
「坊主久しぶりじゃねーか!」
振り返ると、頭にタオルを巻いて顎に無精鬚を生やした男が嬉しそうに僕を見ていた。
最初に僕をチームに入れてくれた人で、以来たびたびお世話になっている。他のフットサル場を教えてくれたのもこの人だ。
「お久しぶりです、チュウさん」
「おう、ホントになあ。違う場所教えたっきり顔も出さねえモンだから、みんなで薄情な奴だってぼやいてたとこだったんだぜ?」
チュウというのは勿論あだ名で、漢字にすると酎。彼の酒好きから来ているらしい。
いつの間にか彼の後ろに集まっていたチームのメンバーにもなあ、と同意を求めていて、僕は苦笑した。
「すみませんって。これからは時々顔出すようにしますから、勘弁してくださいよ」
「ぜってぇ来いよ? 俺らもそうだが、お前と試合したがってた他のやつらも相当鬱憤溜まってンだからな」
これはマジで、と付け足すチュウさんの頬は緩んでいない。目が本気の色をしている。
「うげぇ……手加減してくださいよ」
「そりゃ無理だな! 精々自分の無精でも呪いながら、きっちり体あっためとけ」
大口を開けて笑うチュウさんに、僕は頬を掻いた。
マックスが言っていた欲求不満というのも、違う意味で当たらずとも遠からずな部分がある。だから今日は、近場のフットサル場に来ることにしたわけだ。
いくつかの試合をこなす内にチュウさんの言葉通りいつも以上にもみくちゃにされたけど、時間を忘れるぐらいに楽しかった。心地よい疲労感の残る体を引きづりながら空を仰ぐと、暗い空にぽっかりと月が浮かんでいる。
ついつい長居をし過ぎてしまったことにそこで初めて気付いて、頬を掻く。夕飯どうしようかなあ、なんて考えながら最近買った携帯を操作すると、少し前に半田からメールが来ていた。
「『いまからおまえん家行く』?」
今日は練習にも出たんだろうし、疲れているだろうに。わざわざ僕の家にくるなんて、どうしたんだろう。不思議に思いながらわかった、とメールを返すと僕は帰路につく足を速めた。