▼ 相互カンショウ
円堂のお弁当は美味しそうなだけじゃなく、彩りもよくて栄養バランスにも優れていそうな愛情一杯の手作りだ。
その素晴らしいお弁当が―……いま僕の目の前で流れるように消えていく。
きちんと噛んで食べているのか疑問が湧くほどものすごいスピードで消えていくお弁当に、思わず咥えていたパンを落としそうになった。
なにこれ、早食い大会?
そうこうしている内に食べ終えたらしい円堂はお弁当の包みすらおざなりに、
「ごちそうさま! じゃあ勧誘行ってくるな!」
言うがはやいか、教室を飛び出していった。
円堂の勢いに圧倒されていた僕には見送る暇もない。隣で食べていた一郎太くんに脇腹を突かれて、ようやく咥えたままのパンを一口齧った。
「円堂のおばさんが見てたら絶対怒られてただろうな、あんな食べ方」
「円堂は……その、早食い大会でも目指してるの?」
「そんなわけないだろ」
一郎太くんに呆れ顔をされた。
まあそうだろうけど、と僕も思う。円堂は早食い大会じゃなくてFFを、その前の練習試合を目指しているんだから。
つやつやした玉子焼に箸をいれている一郎太くんをぼんやり眺めていると、名前を呼ばれた。
「それよりも早く食べたらどうだ? 俺もこれ食べ終わったら部活のミーティングに行かなきゃなんないし」
僕と違って淀みなく箸を動かしていたらしい彼のお弁当は、もう半分くらいに減っていた。僕も慌ててパンを押し込むと、困ったやつだなあといいたげに笑われる。
こんな風に僕と一郎太くんは今ではすっかり立場が逆になっていた。
……ちょっと悲しいけど、たぶん諦めるしかない。一郎太くん父性愛が半端じゃないんだ、たぶん。
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結局一郎太くんは僕が食べ終えるまで待ってくれた。
時間は大丈夫なのかと心配したけど、本人いわく問題ないらしい。その辺のことに関して一郎太くんは厳しい人だから本当に大丈夫なんだろう。
去ってゆくポニーテールに手を振ると、僕は途端に放り出されたような気分になった。あまりの手持ち無沙汰にどこかのグループにでも入れて貰おうかとでも思ったけど、気が進まない。
はあ、と落とした溜息は教室の喧騒に掻き消された。
……空しい。
何気なく窓の外を眺めると、ちょうど円堂が見えた。
「帝国学園来たる サッカー部員、大募集!」と書かれたプラカードを掲げて生徒を捕まえている。なにを話しているのかはわからないけど、捕まっている生徒の目元がキラリと光ったのが見えた。眼鏡でもかけているのだろうか。
そのままぼうっと見ていると、二人の脇をカラフルな頭が通り過ぎる。
なんとなく見覚えがある気がした。
マックスかな、あ……プラカード二度見してる。
気になってるのかもしれない。確かにマックスならサッカーの助っ人もこなせそうだ。
身軽さを生かしてサイドバッグやウィングバックとかがいいんじゃないかな。
「……って、僕はなに考えてるんだ」
はあああ、と盛大な溜息が零れる。
どこまでもサッカーのことしか考えていない自分が、考えるのが楽しいとすら感じている自分が嫌だった。
両目をぎゅっと瞑って、窓の外の景色を遮断する。真っ暗闇だけが広がった。
余計な事は考えないで、このまま僕はただの中学生として過ごしていればいい。サッカーとは無関係の、ただの一般人として。
もう何度目かもわからないセリフを胸の内で繰り返す。
そうすればいつの間にか全部終わって、きっとなにごともなかったように元に戻れる。
元の世界に、帰れるんだ。
「……いつまで、」
両足が疼く。足が、震えた。
ボールを蹴り上げて、芝生の上を思いっきり駆けたい衝動が燻っている。もうそれは自分ではどうこう出来るようなものじゃなくて、熱のように僕の胸を焦がし続けていた。
半年近くだ。半年近く、僕は相手のいるサッカーをしていない。
ピッチでの緊張感も高揚感も、芝生を駆ける感覚も、パスもシュートも技術も戦略も、僕が培ってきた全てを忘れかけている。
この状態で元の世界に戻っても、今の僕は使い物にならない。
そんなことは誰より僕が一番わかっている。このまま何もせずにいたら、僕は、サッカープレイヤーの井端邦晶は、消えるだけだろう。
サッカーに対しての焦りと飢えだけが今の僕の胸に巣食っていた。
ふいに名前を呼ばれた気がして、僕は暗闇を抜け出た。目を開くと目の前に豪炎寺が立っている。窓の外を見ているようだ。
豪炎寺は昨日転校してきたばかりで、僕の前の席の生徒だ。円堂の知り合いらしいけど詳しくは知らない。ただ、すごいキック力を持っていて(円堂談)、外見と同じくクールな性格ということくらいだろうか。
僕らが昼食をとっていた時にはいなかったから、いま戻ってきたのだろう。大方、先生からの呼び出しだろうけど。転校生はなにかと大変だからなあと彼を見上げていると、その彼が振り返った。静かな、でも意志の強そうな目が僕を貫く。
「……おまえは手伝わないのか?」
ふいの言葉に、ドキリとした。
「え?」
「あいつのことだ」
豪炎寺は、一度僕から視線を外して窓の外にいる円堂の方を見た。さっきの生徒との話は終わったのか、プラカードを掲げながら今度は別の生徒と話している。
「ああ……僕はサッカー部じゃないから、勧誘は手伝えないよ」
彼が言いたかったのはそういうことじゃないんだろう。予想通り、眉が寄った。
「そうじゃない。助っ人はやらないのか、と聞いているんだ」
「それこそ、どうして僕が? 僕は運動部に所属しているわけでもないし、円堂の友達ってだけだ」
口元を笑みの形に緩ませたまま言い切ると、豪炎寺が嫌悪の表情を浮かべた。さっきよりも眉間のシワを深めて、僕を睨みつけるように見据えている。だいぶ過剰な反応の仕方だ。まるで僕が悪役にでもなったような気分。内心で苦笑すると、豪炎寺は低い声で言った。
「……最近、フットサル場でおまえのプレイを見た。稲妻町より離れたところだったが、あそこは俺が前に通っていた学校の近くで、よく利用してた所だ。プレイヤーの名前は井端。顔も名前も隠さないなんて、迂闊だったな」
「……」
クソ、と口から零れなかったのは奇跡だった。
彼の言う通り、最近ギャラリーが増えたのとサッカー部の知り合いが増えたせいで、常連の人に教えてもらった場所に変えたばかりである。それなのにこれじゃあ、全く意味がない。
唇を噛み締める代わりに意地で笑みを浮かべた。豪炎寺の目が、細まる。
「フットサルをやってるから、なんだっていうの? フットサルとサッカーじゃ、細かいルールも違うよ」
時間稼ぎにもならないことは承知だ。素人のマックスだって感づいたことが、こいつが本当にサッカープレイヤーならわからないはずがない。案の定、豪炎寺は言葉を重ねた。
「あれを見ればわかる。おまえは、一流の技術を持ったサッカープレイヤーだ。特にドリブルの技術やフェイント、ボールのコントロールは郡を抜いている。中学界のトップクラスのプレイヤーとも肩を並べられるんじゃないのか」
「それは、言い過ぎだ」
もうそれ以上、聞きたくなかった。
自分自身のレベルがどうこうなんて、言う気はない。僕はこちらの世界の中学生のレベルを知らないし、これからも知らなくていいから。
でも、ここまで聞けば豪炎寺が一番言いたいことはわかってしまう。
でも僕はそこに、一番触れてほしくない。触れられてしまったら、今まで必死に堪えてきたぜんぶをきっとぶつけてしまう。それになにより、よく知りもしない他人にそんなことを言われるなんて。
それが一番、許せなかった。
笑みを取り繕うのを止めて、僕は豪炎寺を見上げた。見開かれた黒い目と視線が絡む。
「僕には僕なりの事情がある。きみと同じようにね。だからあれこれと横から口だしするのは、止めてくれ」
あくまで冷静に言い切ると、豪炎寺は物言いたげに瞳を揺らした。けれど結局、なにも言わない。
それ以上彼のそばにいたくなくて席を離れると、小さな呟きだけが僕を追いかけてきた。変わらない喧騒に包まれているはずなのに、その言葉だけはするりと耳に忍び込む。
「すまなかった……井端」
僕は教室を出る足を早めた。ああ、そうだ半田のところにでも行こう。そうすればきっと、忘れられる。あんな、悲しそうな声なんて。