▼ 鬼ごっこ
彼のことを忘れていたつもりはない。
ただ僕も周囲に馴染むことの方を先決にしていたからほんの少し……そう、ちょっとだけ。
ちょっとだけ、彼のことを忘れていた……のかもしれない。
「えーと、その……」
「……」
もごもごと意味のない言葉を口の中で転がしながら彼を窺うと、なにを考えているのかわからないオレンジ色の目と合った。腕を組んで僕を見据える彼―……風丸一郎太くんは、少し前からずっとこの調子だ。
原因がどれかはイマイチわからないのだけど、こんなおかしな状況に至った経緯なら説明できる。
事の発端は、案外呆気なかった彼との再会にあった。
購買で僕が飲み物を選んでいると、横から酷く驚いたような短い声がした。
反射で振り返ると、見覚えのある青色が僕の横でゆらゆらと揺れていて、片方だけのオレンジの目が僕を凝視している。僕も彼と同じようにあ、と声をあげるだけで精一杯だった。
「なんで、ここに……。っていうか、制服?」
信じられないものを見る目で僕の全身を上から下まで見回す彼に、僕も曖昧に笑い返す。気まずさというか後ろめたさというか、驚きの後にやってきた感情はそれだった。環境の変化に慣れることに忙しくて、すっかり風丸くんのことを後回しにしていたからかもしれない。
「僕、この間ここに転校してきて……」
「転校……」
咀嚼するように僕の言葉をゆっくりと繰り返した彼は、小さく開いていた唇をきつく締めた。それから、きゅっと眉を寄せる。再会を喜んでいるような雰囲気でも、表情でもない。
正直に言ってしまうと、自分のことを棚にあげて彼のその反応に思うところがなかった訳ではないけど、どちらかというと周囲の視線の方が気になっていた。
ちら、と突き刺さる視線の元を辿っていると彼はいきなり僕の腕を掴んだ。相変わらずの、不機嫌そうな顔で。
「俺は、風丸一郎太。あなたは」
「井端、邦晶」
妙な迫力に呑まれながらどうにか答えると、彼はそのまま僕を引きずるように空き教室へと連行していった。
そして話は冒頭へと戻るわけだ。
結局僕も風丸くんも飲み物を買えなかったわけだけど、そんなことをいまさら言い出せる空気でもない。喉の渇きが少し苦しかったけど、唾を飲み込むことで自分をごまかした。
「あーと、」
張り付きそうになる舌を必死に動かして、もう何度も繰り返した意味のない言葉を転がす。
「その、風丸くん、」
なんで僕は年下の少年に、こんなにビクビクしてるんだか。
なんだか段々情けなさと悲しみが沸いて来て、自然と僕の眉根が下がる。
それでも風丸くんをじっと見ていると、彼はゆっくりと溜息を吐いた。
そして乱暴に自分の視界を遮っている長い前髪に片手を突っ込む。掻きあげるようにくしゃりとにぎりしめると、また溜息を落とした。
「すみません」
ようやく彼が吐き出してくれた一言は、たったそれだけの短い謝罪の言葉だった。
「俺、ちょっと混乱してて……。もう会えないのかなって思ってたので、こんな風にまた会えたことはすごく嬉しかったんです。でもなんていうか、それだけじゃなくて」
うまく言えないんですけど、と苦く笑った彼に、僕も同じように笑い返した。
「その気持ちはちょっと、わかるような気がする。僕は風丸くんがここにいるって知ってたんだから、本当ならもうちょっと早く会えてたかもしれないのにね」
「あ、いえ! それはいいんです、井端さんだって転校したてで忙しかったでしょうし……。結局は俺の我が儘ですから」
風丸くんの笑顔が少し寂しそうだった気がしたけど、僕はなんの変哲もない相槌を打つことしかできなかった。
「あ、でも本当に嬉しかったんですよ! さっきだっていろんな喋りたいことがあったんですけど、1番聞きたかった名前だけで我慢したんですから」
「……もしかして、それであんなに不機嫌そうな顔だったの?」
「え? そんな顔してましたか?」
きょとんとした顔で聞き返されて、僕は思わず脱力しかけた。
もしかして嫌われたり愛想つかされたのかなあ、とか色々深読みしていたんだけど、どうやら見当違いみたいで一先ずは安心だ。
僕がホッと胸を撫で下ろすと、風丸くんは照れたような顔で笑った。
「たぶん、にやけないように必死だったから。誤解させてしまってすみません」
「そんな理由ならむしろ嬉しいぐらいだよ。それよりさ、風丸くん」
出会ったときは不思議にも思わなかったんだけど、今はすごく気になっていることがある。朗らかな表情で返事をした彼に、僕は首を傾げた。
「なんで敬語なの? 僕、一年生だからきみと同じかそれより年下だと思うんだけど……」
「え! 同い年?!」
唖然とした彼の顔に、僕も驚いて眉を寄せた。
僕の顔も身長も平均的な幼さだから、年相応かむしろ年下に見られることが多い。だから風丸くんの敬語は癖かなにかだと思っていたのだけど、前に友達と話していた時は普通の言葉遣いだったから疑問に思ったのだ。
「うん。まだ一年生」
「ご、ごめん。井端さ……じゃなくて、井端って年上っぽい雰囲気だったから勘違いしてた……」
罰が悪そうに頬を掻く風丸くんの言葉に、僕は苦笑するしかなかった。
嬉しいような、そうでもないような。
風丸くんは優しいだけじゃなくて、中々鋭い子なのかもしれない。
僕がそんなことを思っていると、風丸くんが恥ずかしそうに少し頬を染めて僕を見ていた。なんだろう、と思って首を傾げると弾んだ声を出す。
「じゃあさ、井端のことこれからは名前で呼んでもいいか?」
「うん、もちろん。僕も呼んでもいい?」
「ああ!」
邦晶、と嬉しそうに笑った一郎太くんに、僕も同じように彼の名前を呼んだ。