こういうのはぼやいたところでどうにもならない。そう分かっていても言わずにはいられなかった。
「あ つ い!」
シンプルに、ただただ暑い!!
この世界で迎える初めての夏、元の世界とどんな違いがあるんだろう、なんて。そんな風に楽しみにしていた気持ちはとっくにその辺に捨ててしまった。
花火とかビーチとか、そういう楽しげなイベントの記憶で占められがちな季節だが夏は夏ゆえに暑いのだ。とりわけ暑さが苦手という訳でもないけれど、こうも暑い日が続けば流石にウンザリする。毎日毎日、真面目なお仕事ぶりでギラギラ輝きながら頭上を支配する太陽が憎い。おちょくるような生温い風が僅かばかりの慈悲とばかりに汗ばんだ肌をそよりと撫でて終わるのがとても辛かった。
確かに、じっとしていればぽたぽたと絶えず汗を垂れ流すほどの暑さでもないし、重苦しい湿気が纏わりつくような不快さもない。それでも補習から逃亡したグリムを追いかけて走り回るのに向いた季節では決してなかった。
怒られるだろうなあと分かっていても疲労と暑さでヤられた体は自然と木陰に設置されたベンチに吸い寄せられる。腰かけた途端、ぐて〜っと伸びしてしまった。
ああ、ひんやり涼しい教室が恋しい。恋しいのに、グリムがいないから帰れない。寮にも戻れない……。
はあ、と溜め息とともにうなだれた首筋にさわりと何かが触れた。
「うひゃっ!?」
びくり、と跳ねあがった肩を予測していたようになおもこしょこしょとしつこく何かにくすぐられ続けられる。
な、なに?! 咄嗟に手で首をかばいながら振り返ると、
「うはは、ビックリした?」
後ろから覗きこむようにしてにやっと笑うエースが立っていた。
「……えーすぅう」
普通に声をかけてくれたらいいのに! 不満をこめて名前を呼んでもエースのにやにや笑いは変わらない。
「まあまあ、そう怒んなって」
「も〜……そういうの止めてってば」
「こういうのもコミュニケーションだろー? つーか監督生、首弱いのな。いーこと知っちゃった〜」
私を見下ろす柘榴色の瞳が悪戯っぽく輝いて、口元がにんまりと猫のように歪んだ。ほんとエースって碌でもない……。我ながらジトッとした目をしているだろうなと思いながら睨んでみても何処吹く風、という感じだ。仕方ない。
「今度同じことしたら一昨日の掃除当番サボってたことリドル先輩に言うから」
最終手段、先生に告げ口ならぬリドル先輩に告げ口だ。案の定エースが「うげえ」と低く呻きながら顔をしかめた。
「あはは……やだなあ、冗談だって!」
「ふうん、そう。なにか言うことはある?」
「ごめんなさい、もうしません」
「よろしい」
しおらしくなったエースに鷹揚に頷いて見せると形の良い唇がつまらなそうにつんと尖る。子供みたいな仕草なのに彼には不思議とよく似合った。
こういうやり取りが私たちの日常になったのはもうずいぶん前のことだ。エースにからかわれてはやり返す日々は騒々しくもあるけれど嫌いじゃない。今回もとくに私に用があるわけじゃないんだろうなあ。そう思っていたのに、エースがベンチを回り込んできたのはちょっと予想外だった。
「失礼しまーす」
言いながら隣に腰掛けようとする彼のために慌てて端に寄ると、おざなりな礼が飛んでくる。
「私に用があったの?」
「んー? ちげえけど。良いじゃんべつに、用がなきゃ隣座っちゃダメなの?」
「そんなことはないけど」
いつもはあっさりと立ち去っていくことの方が多いエースの気まぐれになんとなく落ち着かない気分になる。むむむ、と首を捻る私をよそに、エースは手に持っていたビニール袋をごそごそと探り出した。
「つーか監督生こそなにしてんの、こんなとこで。トレインせんせーの補習とか言ってなかった?」
「うっ」
思い出したくないことを……。私の反応に察したのか、エースがまた意地の悪い笑みを浮かべる。
「ははーん、なるほどね。お前もほんっと大変だなー!」
「代わってくれてもいいんだよ」
「やーだね」
ケラケラ笑いながら「無理!」とぶった切られた。ですよねー、と同意しつつも溜め息は抑えられない。再びうなだれた私の横でエースが目的のものを取り出したらしく、ピッと袋を破く音がした。なんとはなしに振り返ると、
「アイス……!」
すこし溶けかかった乳白色のアイスがエースの手元に鎮座していた。氷の粒がきらきらと木漏れ日を反射して眩しい。涼しそうな冷気を漂わせる魅惑の氷菓に、さっきまで感じていた暑さが酷くなったような気すらした。思わずごくりと喉を鳴らす私に構わず、エースが大きく口を開けて齧りつく。
「あー、こうもあちぃとアイスがうまいなあ」
わざとらしくそんなことを言いながらチラッと私を横目で見て、またアイスを齧る。ぱくぱくぱく、とあっという間に平らげそうな勢いで減っていくアイスにとうとう我慢できなくなった。
「一口ください」
欲望に素直になって頭を下げる私にエースがにやあと笑う。悪どい。イケメンが台無し、と心の中に留めた呟きが聞こえたわけではないだろうけれど「やだ」と軽やかに断られてしまった。
「私暑くて死んじゃう!」
「オレだってあちーもん」
「エースの意地悪っケチー!」
「そうですよー、知らなかったの? オレは意地悪でケチなエースくんです」
言い合いをしている間も順調に削りとられたアイスはあっという間に最後の一口分を残すばかりになっている。あああ、と堪らず口を開いた私にエースが呆れた目を向けてきた。
「なに、そんな食いてーの?」
「食べ! たい!」
「必死かよ」
ぶはっと笑われようと今はちっとも気にならなかった。じいっと見つめる私の眼差しに屈したのか口元近くにアイスが差し出される。
「ほい」
「やった! あー、」
ん、と閉じた口の中に待ちわびたアイスはどこにもいない。
「え?」
「残念でしたー」
ひょいっと引っ込んだアイスがそのままエースの口内に吸い込まれてしまう。数度咀嚼するように顎が動くのを呆然と見守っていると、そのまま喉仏の浮いた首が上下した。ごくり、と飲み込む音がやけに大きい。
ぱちんと手を打ち鳴らして「ごちそうさまでした!」と、そこまでお行事よく唱えたエースはすまし顔である。
「あああ……分かってた、エースはそういう奴って分かってたけどダメージがでかい……!」
期待していた分、半泣きにもなる。頭を抱えて唸る私に隣から高笑いが飛んできた。
「ハッハー! 人のもんを欲しがるなんてお里が知れましてよ、監督生ちゃーん」
エースのくせに正論だ。悔しくても言い返す気力すら根こそぎ奪われて悄然と肩を落とす。
「……はあ、仕方ない。私も買ってこよ……」
アイスを食べて元気が出たらグリム探しを再開しよう。そうだそれがいい、と言い訳を浮かべながらベンチから立ち上がった。エースはまだのんびりしていくのかと思ったが、ぐぐっと伸びをしながら立ち上がったので彼もどこかに行くらしい。じゃあね、と切り出す前に「あ、そーだ監督生」と呼び止められて。
なに? と開きかけた唇に冷たくてやわらかい何かが当たった。
え、と固まっているうちに唇の隙間をこじ開けて、ぬるりとしたなにかが入りこんでくる。私の舌に絡んだそれはひんやりしているのに甘くて、ちょっとだけ気持ちよかった。あ、バニラだ、なんて。呆けた頭にそんな感想が浮かぶ。
私の熱いぐらいの体温が移って、ぬるくなってしまったなにかが出ていく頃には頭の中はすっかり茹っていた。あつい、と呟こうとした舌には、食べ損ねたはずの甘いミルクとバニラの香りがこびりついている。鼻先がこすれ合うほどの距離で、目尻を染めたエースが悪戯っぽく笑った。
「おすそわけ」